注意事項

※素人の戯言なので観賞本数増えるごとに点数は微調しています。悪しからず。

2013年10月17日木曜日

映画『コズモポリス』80点


DVDにて鑑賞。

監督は鬼才デヴィッド・クローネンバーグってことで
今作の仕上がりもかなり好き嫌いの分かれる作品。
だからこの80点は人にお勧めする80点では無い。

過去の『ヒストリー・オブ・バイオレンス』や、
イースタン・プロミス』も面白いけど好きにはなれなかった。

そんなわけで『コズモポリス』も相変わらず
クロ-ネンバーグ全開の世界観で進んでいく。


簡単に言えば28歳にして大富豪に成り上がり、
イケメンで富と名声と女と全てを手に入れたような主人公が

















「元」の暴落で破産していくという話なんだけど、
個人的に最も印象的だったのが最後のシーン。



主人公を暗殺しようとする
ハゲでデブの元従業員(クビになった)のおっさんと
主人公がお互い銃を向け会いながら話し合うんだけど、













おっさんはひたすらに
「お前を殺して俺は人生に意味を持たせるんだ!」
と、いわゆる「負け組」が「勝ち組」を逆転したいが故に
吐くような良いとも悪いとも言えない「痛い」台詞を言い放ち、

それに対して「勝ち組」投資家は

「意味って何?」
「世の中理論だよ」

みたいな調子で序盤から保ち続ける能面のような
クールな表情で上から目線でハゲでデブのおっさんをいなす。

ところが次第にお互いがお互いの気持ちを吐露することで、
お互いがお互いに不安定になり始める。

ハゲでデブのおっさんは「意味を持たせる」とか
一見哲学的な発言を唾飛ばしながら言ってるくせに

「俺がクビになったのは『臭いから』」

という、超現実的な、これぞリアリズムみたいなことを言い始める。


そしてそれに呼応したのか知らないが、
エリートイケメン投資家は物憂げな表情と声で

「俺の前立腺は左右非対称だ」

とかいう謎の身体的コンプレックスを告白し出す始末。


この一瞬コントじみたお互いの告白は、
僕らが何か求めがちな「自分」とか「意味」とかより
最も切実でリアリティーのある現実なんじゃ無いか。


これに直接通じるかといったらそうでは無いかもしれないが、
最近、村上龍が爆笑問題のラジオに出たときに
村上春樹に関して話していたことで非常に印象的だった箇所があり、
少し長くなるが以下、引用する。


村上龍
僕は、春樹さんと一番違うのは、(村上春樹の作品には)
自意識の揺れとかっていうのがあって。
『自分はあの時、あの判断をして良かったんだろうか』とか。
それはスゴイ大事だと思うんですよ」

爆笑問題・太田「はい」

村上龍「僕は、そういう自意識の揺れってよりも、

その自意識の揺れを吹き飛ばしてくれるものが好きなんですよ」

爆笑問題・太田「そうそう」

村上龍「自意識の揺れにも、凄く大事なところは

いっぱいあると思うんだけど、ただ自意識の揺れって、
考えてみるとキリがないんですよ」

爆笑問題・太田「うん」

村上龍「答えが出ない」

爆笑問題・太田「若者っぽいですよね、それって」

村上龍「そうですね(笑)」

爆笑問題・太田「凄く」

村上龍「それを吹き飛ばすものって、

結構、パワーが必要なんですよ。たとえば、セッ○スとか、戦争とか。
戦争とか、それが良いってことではないんです。
ただ、自意識の揺れを吹き飛ばしてくれるものが好きなんですよ。
スゴイ音楽とか…

(中略)

爆笑問題・太田「村上龍さんの場合は、
現実に今起きていることを…たとえば、
半島を出よ』なんかでも、一時期から経済ってことを
抜きでは小説を書けないっていうところで、
どんどん取り込んでいくじゃないですか。
取り込んでいって、『現実の実態がこうなんだから、どうするか』
っていう。意識の揺れなんか、心の中の葛藤から飛び出して、
今の社会でどう生きるか、もがいて転んで血だらけになってるんですよ」

村上龍「うん」

爆笑問題・太田「でも、村上春樹さんは、

そこからちょっとスーッと上に居て、あんまり殻から出てこないですよね」

村上龍「うん…」

爆笑問題・太田「それはとっても若者らしい悩みだと思うんだけど、

僕なんかは、ギャーギャーもがきたいんですよ。
だから、共感を感じるのは、
今をどうするかってやってる龍さんの方に、共感を持つんです」

村上龍「あぁ」

爆笑問題・太田「意識の揺れだなんだってところと、

今まさに日本がアベノミクスだなんだって言ってるじゃないですか。
株の上げ下げとか外国の投資家、
投機家のさじ加減で一喜一憂するじゃないですか。
でも、それと実態とのズレで日本中が混乱してるところじゃないですか?」

爆笑問題・田中「うん」

爆笑問題・太田「安倍さんがやってることと、

実際に商店街で商売してる人の違いみたいなものが、
W村上との違いとが、俺の中に重なるんですけどね」

村上龍「う~ん」

爆笑問題・田中「言ってること分かりますか?」

村上龍「ちょっと分かります。

ただ、たとえばね…あんまり良い例えじゃないかもしれないけど…
中央線で暗い顔して佇んでるオジさんがいるとしますね」

爆笑問題・太田「はい」

村上龍「日本はいつも自殺が多いんですけどね。

そのオジさんが、なんで暗い気持ちになって
自殺まで考えてるかっていうと、意識の揺れなのか、
早期退職で解雇されたのか…それは分からないんですけど、
僕としては、解雇されたからだと思うんですよ」

爆笑問題・太田「うん」


世界は数字で出来ている』より引用。



長い引用になってしまったが、言いたいことは
村上龍の最後の言葉に集約されている。

そのオジさんが、なんで暗い気持ちになって
自殺まで考えてるかっていうと、意識の揺れなのか、
早期退職で解雇されたのか…それは分からないんですけど、
僕としては、解雇されたからだと思うんですよ」

そう、春樹が描くような一見崇高な「意識の揺れ」みたいなものは
決して「現実」に生きる世界においては、
人々が行動する上での真理では無い。

正しい表現かどうかは分からないが、
人間はもっともっと単純で原始的で本能的なのだ。


だからコズモポリスで描かれているように
一見哲学的で前衛的に振る舞う登場人物達も
「死」という「リアル」なものに直面したときに、


「俺は臭いからクビになった」
「俺の前立腺は左右非対称」

とか言い出してしまうのだ。
なぜならそれが彼らの真実だから。


で、ラストシーンがまた挑戦的で良い。
「意味」にこだわってたおっさんが、
「理論」信者の主人公の後頭部に銃を向け、
今にも撃ちそうなんだけど撃たずに
だらだらしゃべったまま映画は終わる。


こいつらのどちらが勝者だろうと関係ない。
というかその勝敗には興味ない。
そのドS的神目線で映画を撮るクロ-ネンバーグは
やはりただ者では無い。



映画『トランス』78点



2012年10月13日TOHOシネマズシャンテにて鑑賞。


ロンドン五輪開会式の芸術監督を務めた
ダニーボイル大先生の新作と言うことで非常に楽しみにしていた作品。

その期待通り、映像、音楽、美術から形成される世界観、
そして『トレインスポッティング』を彷彿とさせる
スタイリッシュかつスピーディーな展開。

こんな世界の巨匠が芸術監督を務めた
五輪の開会式って日本人の場合誰が担えるの?
と心配になるほど隙が無い映像美だった。


いまイギリスでのってるジェームズ・マカヴォイ
存在感も忘れてはいけないが、














ただ、そのスタイリッシュさに気をとられていると
肝心の物語に置いて行かれてしまう。
ここが『トレインスポッティング』とは異なる点で、
物語は始めから終わりまで伏線張りまくりの
極上ミステリーに仕上がっている。

ネタバレ後に「あ~そう言えば序盤に伏線が…」みたいに
思い出しながら見ていると、さらに次の謎が…みたいな…

さすが大先生!脚本も天才的スピード感ってな感じで、
もう一回見返せばきっともっと色々なことが理解できて、
さすが大先生!完璧な脚本だったんですね!って
思うんだろうな、でもそれって何か負けた気がする…
何て思わせる程、抜群のスピード感で観客を夢中にさせる。

そのスピード感の中にも、
精神科医を痛烈に皮肉った『サイドエフェクト』にも通じる
催眠療法への警鐘みたいな影のテーマが見え隠れするのは
さすが巨匠ダニー・ボイル先生。


しかし、「あえて」意地悪く言えば、
そのスピード感と映像美にごまかされて、
実はなんか脚本に無理ない?
大先生ホントに綿密な脚本なの?
なんて思えなくも無いけど、とにかくそんな疑念も
吹き飛ばしてしまうほどあっという間に映画はエンディングへ。


さらにもう一つ印象深い点を上げるとすれば、
この映画の鍵を握る催眠療法士役のロザリオドーソンの
















およそ同じ人類とは思えないダイナマイトボディ。
映画上はまるで神かのような神々しい照明を浴びて
惜しげも無くヌードを披露してくれているが、

さらに衝撃なのが、大事なところを剃毛済み!
まぁこれには理由はあるにはあるんだけど、
さすが大先生!ここもこだわってのフルヌードなんですね!
R-15な理由はここですね先生!

そしてさらに!
剃毛させたダイナマイトボディことロザリオさんと
この映画をキッカケにお付き合いをされてるとか!
56歳にしてその勢い足るや!















「恐れずにどんどんリスクを冒そう」って
有言実行過ぎて格好良すぎます大先生!
東京五輪の芸術監督もお願いできませんか?

2013年10月7日月曜日

映画『クロニクル』76点


2013年10月4日鑑賞。


首都圏のみの2週間限定公開のはずが、
早くも公開拡大が決定したという。


それもそのはず、この映画は面白い。
SF、超能力、超常現象モノが苦手なあなただったきっと楽しめる。
そして何よりも83分というコンパクトさも気軽にお薦めできる要素だ。


予告編を見て貰えれば分かるが、
高校生3人が超能力を手にして次第におかしなことに…という展開。


この映画はまず、低予算映画あるあるの
ファウンド・フッテ-ジという撮影方式で物語が進んでいく。

この撮影方式は、古くはブレア・ウィッチ・プロジェクトまで遡ることが出来る
映画の登場人物が回すカメラの映像目線で描かれたモノだ。
















そんな、もはや決して新しくない撮影手法ではありながら、
ホラー映画でも無いのに83分間目には見えない緊張感を維持できるのは
本来「手で持って」回すカメラを、超能力を手に入れたことによって、
カメラさえも超能力であやつり、地面から空まで変幻自在なアングルを
観客に体感させてしまうからだろう。


恐らくこのアイディアは、使い古されたと思われていた
ファウンド・フッテ-ジ系映画の中でも初めての試みで、
評価に値する点だろう。













※このシーンはカメラを空中に浮かせて撮影しているという設定



そんなカメラを回す主人公は、
2013年度上半期ベスト3に入る『プレイス・ビヨンド・ザ・パインズ/宿命』
でも、ゴズリングの息子役として存在感を示したデイン・デハーン














彼はきっと大成するだろうなと思わせる存在感をこの映画でも放つ。

近年のハリウッドスターは、アイドル的な「王子様的イケメン」ではなく、
一癖も二癖もある、影を背負わせるとしっくりくるイケメンが
その世界で成功する一つのセオリーのようになっている気がする。

つまり、王道の正義のヒーローを演じられるだけでは通用しない時代。
レオ様もタイタニックのアイドル王子様から必死に脱出を試みて
ギャングオブニューヨークやディパーテッドやらで、
ひげ面の悪い奴を演じてみたり、

ブラピだって今までは決して「『ワールド・ウォーZ』みたいな
ベタベタの最強正義の味方みたいな役を演じることは無かった。

そういった意味で主演のデイン・デハーンの悲しげな「目」は、
















与えられた役柄に完璧にマッチし、

「こいつヤベーよ、何かやるぞ絶対。マジヤバイって。」

みたいな、次第に暴走し始める
超能力者としての不気味さをも表現することに成功している。


そしてそんなデハーン演じる主人公が良くも悪くも
物語の全ての鍵を握るのだが、ネタバレになるので詳細は触れない。


が、この映画が評価に値するのは、

力(超能力)を持ってしまった人間が
               その使い道を誤らないとは限らない


という二重否定の皮を被ったふりをしながら
ハリウッドの王道ヒーローモノに中指を突き立てるスタイルだ。


超能力を持った無邪気な高校生3人は、
最初は誰もがそうするように、しょうもないイタズラや
あくまでも内向きの「遊び」でその能力を消化する。
(画像参照)





















この力は彼らにとって非常に魅力的で、
それと同時に彼らはその力をどんどんと強め、進化させていく。

進化していくと同時に、彼らは自分たちに「力」がある、
自分は「強い」と思い始める。

思い始めるというか、実際に彼らは「強い」のだ。
その「力」で人を楽しませるにとどまらず、助けることだって出来るし、
そして人を「殺める」ことだって出来る。

そんな人間が関与できる極地でもある「生死」すら
支配下におけると実感し始めた彼らが向かう先はどこなのか?


ハリウッド映画を代表するスーパーヒーローたち、
バットマン、スパイダーマン、スーパーマン…
彼らは「力」を「正義」のために使う。

そんなもはや設定とすら思わない映画界での「常識」を
疑ってみたらどうなるだろうか?
ひっくり返してみたらどうなるだろうか?


力(超能力)を持ってしまった人間が
               その使い道を誤らないとは限らない


「力」を手にした少年達が迎える結末とは。
ぜひ、劇場で目撃して欲しい。






2013年10月4日金曜日

映画『エリジウム』63点


2013年9月30日鑑賞。


地球に難民としてやってきたエイリアンを
『第9地区』に隔離して管理する人類















という奇想天外な、もはやコントに近い(上画像がすでにコント)発想を、
長編映画デビュー作で見事映像化したニール・ブロムカンプ監督。


その第2作目と言うことで、それはもうそれなりに、
「あの世界観」「あの奇妙さ」みたいなものを
期待して鑑賞を開始したわけだ。


だがどうだろう。


いや、そもそもこの映画。

2154年-永遠の命が手に入る理想郷“エリジウム”に住む富裕層と、
荒廃した地球に住む貧困層とに二極化していた。
全人類の平和な未来を求め、悲しくも壮絶な戦いが始まる・・。

この設定からして、
ブロムカンプ師匠特有の「奇妙さ」「奇想天外さ」の
臭いは微塵として感じられないでは無いか。


この文字面から誰しも簡単に想像出来るのは、
「ハリウッド的お決まり勧善懲悪」

観る前からわかってるぜ!
それでも気持ちいいから単純な俺らは観ちゃうぜ!

という種類の映画である。


だけどもだけど、思い出して欲しい。
この作品の監督は「あの第9地区」を作り上げた
ブロムカンプ師匠なのだ。

そんな「お決まり」の「勧善懲悪」に見せつつ、
きっと何か「奇想天外な」要素をぶち込んでくるに違いない。

そんな期待感を抱いての鑑賞開始という
書き出しに話を戻そう。


だが、どうだろう。
そのあらすじから醸し出されていた懸念は見事的中し、
拍子抜けする程「通常のハリウッド娯楽作品」だった。

いや、決してつまらなくはない。
それに随所でブロムカンプの意地というか、
いや、意地と言うほどの情熱は感じなかったが、

意思を持ったロボットや、











超アナログにバットマン化したマッド・デイモンなど

















彼の味みたいなものは感じられたのは確かだ。

いや、でもやっぱり本編全体を通して
拍子抜けする程「通常のハリウッド娯楽作品」なのだ。

第9地区の監督だと思いながら見始めてしまえば何の面白みは無い。

ではなぜ彼はそんな作品を?
才能の枯渇?

いや、そんなはずが無い。

通常の娯楽作品とは言え、
一つの作品としては、突っ込み所は多少あるものの、
しっかりまとまっているし、アクションやCGも
及第点というレベルにまとめあげていることは確かだ。

というわけで、
クロムカンプはきっと、この作品で「通常のハリウッド映画」も
作れることを「ハリウッド」に証明し、
しっかりと「通常のハリウッド映画」を好む客層を獲得し、
小銭を稼ぎ、「ハリウッド」から信用を得て、
それを元手にまた「あの第9地区」のような、
独創的な作品を作る準備のための作品なんでしょう。

そう思えば、期待を裏切られてしまったという感情も
押さえることが出来る、そんな助走的作品と言うことでいかがでしょうか。

2013年9月12日木曜日

映画『サイド・エフェクト』77点



幸福な生活を送っていたエミリーは、夫がインサイダー取引で収監されたことをきっかけに、
かつて患ったうつ病が再発。精神科医のバンクスが処方した新薬により、うつ症状は改善されたものの
副作用で夢遊病を発症し、やがて無意識状態のまま殺人を犯してしまう。
主治医としての責任を問われ、社会的信頼を失ったバンクスは、
エミリーに処方した新薬について独自に調査を開始。やがて衝撃的な真実にたどりつく。
(By 映画.com)


2013年9月8日鑑賞。



「鬼才」といわれたソダーバーグ監督の引退作。
引退にふさわしいコンパクトで美しくまとまったサスペンス映画だった。


まず引退作を彩る豪華俳優陣達。
中でも『ドラゴンタトゥーの女』では、徹底的な役作りで
圧巻の演技力を見せつけたルーニー・マーラ














その実力は今作でも遺憾なく発揮されていて、
いや、むしろ彼女の存在感無しにはこの映画は成立し得ないと
言えるほど、物語的にも彼女は鍵を握る存在である。


ソダーバーグ監督といえば、自らカメラを回すことも珍しくない
といわれるほど、その映像へのこだわりには定評のある監督である。

















さらに、アカデミー賞に輝いた『トラフィック』で見せた完璧な脚本、編集。
この技術は知る人ぞ知る『オーシャンズ』シリーズでも垣間見えるわけだ。


そんな彼の圧倒的な才能を、
これでもかというくらいに凝縮した作品であることは間違いないのだが、
鑑賞後に言葉にならない微小な違和感を感じた。


それは何かというと…

なるほど確かに美しく綿密に練られた脚本、
随所で監督のこだわりを垣間見れる、引退作にも関わらず
未だなお挑戦する姿勢を感じられる編集技術、
そしてそれを支える豪華俳優陣の濃厚な演技力…
















一見欠点の見えない「完璧」な作品なのだが…


そう、そこだ。


この映画は、あまりにも「完璧」すぎるのだ。


ネタバレになってしまうので詳細は避けるが、
この映画は終盤に大きなどんでん返しが起きる。


そのどんでん返しが起きてから、物語上ではどんでん返しの経緯、
理由などが少しずつ紐解かれていくのだが、


※余談だが、この「どんでん返し」はエドワード・ノートンのデビュー作
 『真実の行方』に見えてしまったといえば分かる人は分かる


その紐解き方が映画における「セオリー」みたいなものには当てはまらない
(私見ではそう感じた。映画通からすればそうでもないのかも…)
演出方法がとられているのだ。


その演出方法とは、簡単にいえば、「全て説明する」だ。


こういうサスペンス系の映画かつ鬼才と呼ばれる監督の映画って、
たいていがどんでん返しやトリックが見えてきたら、
その余韻みたいなもので映画を引っ張って、
あとは観賞者側の想像力や解釈に委ねるよ!的な映画が多い。


だが、この『サイド・エフェクト』は、そうは行かない。
どんでん返しが起きて、余韻に浸り始めて、

「あーなるほどね、あれがこうであそこがこうだから…」

みたいに整理し始めようとしたところで、
ソダーバーグは登場人物を使ってその謎を丁寧に解説させる。

それはまるで交通誘導員のごとく丁寧にゆっくり説明してくれる。
ここが評価の分かれ目のような気がするが、
思い出してみると、鬼才ソーダ-バーグは、『トラフィック』でも
観賞者側が混乱するような複雑な3つに分かれた群像劇を
映像化するに当たって、その3つの場面それぞれの映像に
異なる「色」をつけ、視覚的に明確に鑑賞者が理解できるシステムを導入した。

「鬼才」は、その名に一見ふさわしくない
「観賞者に優しい映画作り」をする監督でもあったのだ。


そう考えれば彼の幕引きにこの手法を一番しっくりはめやすい
サスペンスミステリーを持ってきたことに合点がいく。


そんな「説明しすぎ」映画だが、
冒頭に書いたようにサスペンス映画としては一級品の
綿密に練られた脚本と、冒頭から終わりまで緊張感を保ち続け、
鑑賞者を釘付けにする映画であることは間違いない。


その証拠に「ある殺人シーン」では、
映画館全体から「ヒッ!」という女性達の悲鳴が聞こえたほど。
こんな事映画観ていて初めてだったが、
「ヒッ!」とまではいかないが、確かに僕も驚かされた。




脚本と編集ばかりほめているが、
タイトルである「サイドエフェクト」=「副作用」に込めた
アメリカ社会における精神科医に対する強烈な皮肉は、
この映画の「どんでん返し」にこそ深々と刻まれている。


2013年9月10日火曜日

映画『ゴッド・ブレス・アメリカ』70点




キックアスよりブラックで過激。
リストラやら不治の病やらで自殺寸前の見るからにさえないおっさんと、














平凡で退屈な日常に嫌気がさしていた女子高生が













ひょんな事で意気投合し、世の中のむかつく奴らを
徹底的に射殺して回るという痛快カルトコメディ。

その対象は恐らくアメリカ人にとっては「あるある」の連続で、
日本でいう「一見リア充」、「糞セレブ女子高生」、
映画館で上映中にしゃべってるやつ、列に割り込むやつ、
中には人類普遍で虫ずが走るような、
「むかつく社会のゴミ」を片っ端から痛快に殺していく。













その動機はさえない主人公のおっさんが、

元妻と娘が自分から完全に離れて言ったうえ、
誤解からセクハラで解雇され、
さらに医師からは脳腫瘍で余命が短いと宣告された。
拳銃自殺をしようかと考えていたフランクだったが、
わがままな少女クロエが出演するリアリティ番組を目にした途端考えを変え、
隣人の車を盗んで番組の撮影現場へ向かい、
クロエを手錠で拘束したうえで射殺した。
(Wikipediaより引用)


こんな感じで全ての不謹慎殺人ショーが始まる。
似たようなコンセプトで大ヒットした『キックアス」と大きく異なるのが、
実際に人を殺したことが無い本当に平凡なおっさんと女子高生が、
同じく何も特殊能力が無い
「普通(といってもウザめ)の市民」を「殺しまくる」ということだ。

「キックアス」で人を殺すのは、結局極悪非道なマフィアもどきたちと、
圧倒的な戦闘能力を秘めたヒットガールである。













その「キックアス」の面白さは結局、ハリウッドというか
エンタメの常套手段である「勧善懲悪」にある。

「実際にスーパーヒーローが現実にいたら…それは許されるのか?」

という、バッドマンシリーズでノーランが挑んだテーマ、
ハリウッドで流行るそのテーマに乗っかっているように見せて、
実際はヒットガールの「超人」的な強さで悪を圧倒するという
(少女が銃やナイフで人を次々に殺すという不道徳な逆説的爽快感もあるが)
ベタな「勧善懲悪」に観賞者側は興奮し、さらにその「勧善懲悪」を果たすのが、
小学生位にしか見えない少女=ヒットガールであることが新しかったわけだ。

しかし、似たような話に思えるゴッドブレスアメリカには、
キックアスにあるような「爽快感」がいまいち感じられない。

それはなぜか?

その理由は前にも書いたが、

実際に人を殺したことが無い本当に平凡なおっさんと女子高生が、
同じく何も特殊能力が無い「普通の市民」を「殺しまくる」からだ。











殺されるのは、映画館でしゃべりまくる奴、長蛇の列に堂々と割り込む奴、
差別発言を繰り返すテレビコメンテーター、障害者をネタにして笑うテレビ番組…

たしかに腹が立つ、罰せられるべき人間たちかもしれないが、
いざ主人公達が銃口を向け、あっさり彼らを射殺しているのを見ると、
そこに爽快、痛快さは無いのだ。
そこにあるのは、なんだか分からないモヤモヤした不条理感だ。

それどころか、「なにも殺さなくても…」なんていう、
「24」のジャックバウワーが何の躊躇も無くテロリスト達を射殺する














際には全く抱くことが無い、道徳的感情を抱いてしまうのだ。
その感情が指し示すのは、

「実際にスーパーヒーローが現実にいたら…それは許されるのか?」

という問いに対しての解答では無いか?

もちろん答えは「No」だ。
実際にバッドマンやらが行う正義の味方的な「度」を超えた自警行為は
バッドマンだから許されるわけで、街に溢れる我々市民の一員が
いきなり正義感を背負い、勝手に人を成敗し始めたらそれはやはり許されない。

そんな冷静に考えれば当たり前のことをこの映画は教えてくれる。
監督の意図がそんなところにあるのかはさておき、
僕は見ていてそんな感想を不快感と共に感じた映画だった。


ゴッド・ブレス・アメリカ DVD