注意事項

※素人の戯言なので観賞本数増えるごとに点数は微調しています。悪しからず。

2013年12月30日月曜日

映画『ブリングリング』75点



2013年12月30日観賞。


前評判はさほど良くなかったのでハードル下げて観賞。
しかし全体的に悪くなかった。

同じく若者の暴走を描いた『スプリング・ブレイカーズ』とはまた違い、
コッポラらしくセンスフルにそんな様子を描きながらも、
コッポラらしくあくまでも暗喩的に
現代社会への痛烈な皮肉をこめた作品になっている。



ソフィア・コッポラの代表作でもある

ロストイントランスレーション』でも同様だが、

コッポラはあくまでもメタファー的脚本で
自分の映画を観賞者に主張してくる。

この手法と、音楽、そしてコッポラ的映像が
いわゆる「コッポラファン」、つまり、
「コッポラの映画好きって言ってる私ステキ」
的な風潮を生み出す源泉になっている気がする。


個人的には好きでも嫌いでも無いコッポラ作品だが、
今作はその得意のメタファーが披露される主題を
実際の事件にしたところにポイントがある。

それは、セレブ生活に憧れる無軌道な若者達が、
パリス・ヒルトンやオーランド・ブルーム、
リンジー・ローハンなど名だたるセレブの豪邸を
インターネットで調べ、留守宅への侵入と窃盗を繰り返し、
被害総額3億円とも言われた事件だ。














映画のポスターにもなっているこの写真から既に
コッポライズム全開!
全身ブランドで固めてドヤ顔のティーン達!

そしてさらにその期待は裏切られること無く、
「この映画をイケてるって思えないと私イケてない」
みたいな若者達の乱痴気は繰り広げられる。















女子の憧れルブタン、CHANEL…

















一見あくまでも淡々と彼女たちの
暴走から破滅を描いているように見えるが、
この映画のコッポラ的メタファーの核心はここにはない。


むしろこの映画の面白いところは、彼女らが逮捕された後だ。
ここからコッポラの現代社会、現代の軽薄な若者を
徹底して嘲笑い、馬鹿にしているドS的脚本が展開される。


特に顕著なのは、逮捕後の彼女たちのインタビュー映像だ。
主犯の女子は警察相手に「全部しゃべれば無罪放免になる?」
というクソみたいな台詞を平然と放ったかと思ったら、
「リンジーは何て言ってた?」という
無邪気を超えた無知丸出しの質問を投げかける。

そして何よりも愚の骨頂としてコッポラにつるし上げられたのは、
ウォール・フラワー』でも良い味出してたエマ・ワトソン。















逮捕前はこんなにイキがっていたのに、
逮捕後はいかにもアメリカらしく自宅にマスコミを招き、
横には母親と弁護士を配置し、神妙な顔でインタビューに答える。

















このシーンは最高にシニカルだ。

「心を入れ替えた」エマ演じるリッキーは、
教会などでチャリティー活動を熱心に行っているらしく、
アフリカでツアーを行い、井戸や学校を作ってるのよ
なんていう「きれい事」をドヤ顔で話し始める。

そしてインタビュアーから「どの国で?」と聞かれる。

するとリッキーは「正確な国名までは覚えてないけど…」
というまたしてもここで無知がバレるお粗末な回答。

でもそれに関して記者は全く攻めないのがまた良い。
この後もまたひたすらに茶番が続く。

将来の目標やゴールは?という問いに対しては

「平和と環境保護のために働くのが私の使命よ」

というもはやコントにしか思えない発言を真顔でかます。
さらにそう言ったかと思えば、気分が乗ってきたのか

「将来は指導者になってみんなに注目されるようなことをしたい」
「ビジネスの勉強をしてるのもリーダーになって人々の役に立つため」

というもはや矛盾という枠には収まりきらない
結局お前は自我の塊に過ぎないクソみたいな若者なの?

と、おじさんやおばさんは
猛烈に説教したくなるインタビューを見せつけられる。


だが、あくまでもコッポラは、そんな彼女たちに対して
「映画内」では非難も賛同も見せることはない。


あくまでも彼女たちの言動を客観的に描いて、
観賞者に突きつける。


扱う題材は違うが現代の象徴的な若者を描いた映画に
フィンチャーの『ソーシャルネットワーク』があるが、
『ブリングリング』の方がよりメタファーの皮を被ったふりをして
現代の若者達を嘲笑うコッポラの姿が鮮明に浮かび上がってくる。


つまり、この映画はメタファーを使って客観的に淡々と描いている
ふりをしているだけで、実際はかなり思想性の強い映画になっている。


わざとそうしたのかはコッポラに聞かないと分からないが、











実はさらにもう1周して、
「私はまだまだこういう現代っ子たちを神目線で描けるのよ!」
というコッポラの究極の自己満ドヤ顔作品な気がしないでも無い。


長くなったが、最後に。

今作のホームページには、
様々な有名人の好意的な感想が寄せられているが、
どれもこれも芯を食っていない中、
コッポラのメッセージ性をある程度理解して
言葉にしているのは平子理沙だけという
サプライズで本年度の映画館観賞を終えた2013年。

お後がよしいようで。


2013年12月29日日曜日

映画『スプリング・ブレイカーズ』84点



DVDにて観賞。
鬼才ハーモニー・コリンの作品と言うことで、
一筋縄ではいかないだろうと身構えて観賞し始めたが、
予想を裏切ること無い、わけのわからない作品だった。

でも個人的にはとても好きな作品。
だからこの84点は万人に勧める84点では無いことを先に言っておく。



さて、序盤からアクセル全開のこの映画は、
強烈なオープニングで観客を惹きつける。


それはテラスハウスも真っ青のリア充感満載の若者達が
ビーチにおいて水着で、中にはおっぱい丸出しで酒を浴びながら、
クラブミュージックにリズムをとり、腰を振り、交わり、
踊り狂い続けるという映像だ。

















この画像は全然マシな方だが、

とにかくもう

「俺のスプリングブレイク(春休み)は何て惨めだったんだ…」

と、後悔してもしきれないほど、リア充という言葉を超越した
弾けきった学生達を見せつけられる序盤。

というわけで、一人で観ていても恥ずかしくなるくらい
エロくてキレのある若者達を目の前にした僕は、

「テラスハウス的な若者の恋や乱痴気青春模様を見せつけられるのか…」

と、かまえて観賞スタート。


ところがどうだ。

主人公である4人のイケてる(様に見せかけている)女子学生達の乱痴気ぶり、


















ドラッグパーティーの末、調子に乗りすぎて逮捕され、
明らかに悪そうな奴はだいたい友達みたいな
チーマーに心酔していく危険な青春ストーリーが
展開されていくのだけれども、














次第にあれ?妙に変だな…と、何か違和感を感じ始める。

その正体は何なのか?

この映画は、テラスハウス的な圧倒的なリア充感、
つまりイケてる感を常に醸し出していて、
そのイケてる感は、実際に主人公達のような美貌と
若さと危うさと勢いと、その全身からまさに「リア充な」
若者達が欲望のままに遊び狂う様子から見て取れる。


だがそんな若者達が、
稲川淳二風に言えばやはり「妙に変」なのだ。


それは何かというと、
テラスハウス的なリア充感と何が違うのかというと、
一見リア充に見える彼女たちのどこかに哀愁というか
ニヒリズム感が見え隠れするという点だ。














圧倒的に性を含めた全ての欲望を解き放ち、
楽しんでいるように見える彼女たちはどこか虚無的で、
本当に幸せなんだろうか、と立ち止まった瞬間に
全てが失われてしまうような危うさを抱えている。

そういったニヒリズム感みたいな空気は、
ハーモニー・コリンの代表作であるガンモにも通じる。

そしてもう一つ。
この映画が「妙に変」な理由。


それは、圧倒的なリア充イケてる感満載映画である気がするが、
実はこの映画ちょいちょいダサくない?

という、イケてるのかイケてないのかわからなくなる点だ。
その疑問が確信に変わったのは、
悪そうな奴はだいたい友達感が半端じゃないエイリアン役の
ジェームズ・フランコが自分の家のプールサイドで歌うシーン。
(そもそもエイリアンっていう役名からして怪しい)

何を歌うかと言ったらブリトニーのEverytime!
その動画がこちら。




いや、確かにこの歌は良い歌だよ。
ブリちゃんを否定する気は一切無い。

だが、どうだ。

冷静に観ると結構ダサくないか…?
この状況で悪そうな奴がだいたい友達みたいなチーマーが
ブリちゃんのバラードを弾き語る?

3周くらい回ってやっぱりオシャレでイケてて、
テラスハウスも到底及ばないリア充シーンなのか?
テラスハウスのテイラースイフトよりずっとイケてるのか?


もはや僕には分かりません。


そしてそんな疑問を拭えないまま
ストーリーはさらにスピード感を増し、ラストへ。

















このラストがまたダサいのか格好いいのか全く分からないラスト。
ネタバレになるから書かないが、ウソでしょ?ってくらい
あっさりと彼女たちは色々なことを遂行して終わる。


それでも観賞後なにかよくわからない高揚感と、
妙なカタルシスを得られるのがこの映画だ。


そういう意味で個人的にこの映画を評価したいと思う。
そこら辺の青春映画よりもずっと鮮烈で、何が何だか分からないけど、
ダサいのかイケてるのか全く分からないけど、
監督の意図はどちらにあるのか分からないけど、
僕はこの映画を評価したいと思う。

だから角度は全く異なる青春映画である
ウォール・フラワー』よりも得点は圧倒的に上。
これは個人的な好き嫌いの問題だが、
何か強烈なアート作品を見せられた時の感覚というか、
何がいいのか論理的に説明はできないが、「何か良い」、そういう映画だ。


退廃的で、ちっともリア充じゃない女の子たちの無謀な青春、
それがこの映画には凝縮されている。


そんなニヒリズムと哀愁漂うこの映画が僕はとても好きだ。


2013年12月22日日曜日

なぜ映画を観るのか?


最近、

「なんでそんなに映画ばっかり見てるんですか?」

って聞かれるんだけど、
曲がりなりにも「映像」に携わる人間としては、
「映画」という作品表現って理想だと思うから
というのが答えになる気がしている。

その心は、映画という媒体は、
「観賞者が初めから終わりまで観る」
という絶対条件の下に製作されている。

これは、そんなの当たり前じゃんという真理に過ぎないが、
その真理は映画とテレビが圧倒的に異なる真理でもある。

残念ながらというべきか、
僕が制作に携わる「テレビ」は、厳密に言うと
「観賞者が初めから終わりまで観る」
という絶対条件の下には制作されていない。

視聴者はいつチャンネルを変えるか分からないし、
だからこそチャンネルを変えられないように、
チャンネルをキープして貰えるような工夫を凝らす。

その例は、時にバッシングの対象となる
「CM前の過剰な煽り」演出であったり、
「多すぎる」テロップであったりする。

その点、映画は対象的だ。
ほとんどの映画が、テレビバラエティでは「あり得ない」
冒頭2~5分のクレジット&風景で始まる。

こんな事をバラエティ番組でやってしまったら
まず視聴者は逃げてしまうだろうから、
テレビのセオリーでいえば、今回の放送では
こんなことが起きますよなんていう簡単な予告を流し、
チャンネルを変えられる前に本編に入る。

映画はそんな必要が無い。
自分が作ったものを見に来る観賞者は、
とりあえず映画館に着席したら、
エンドロールが流れるまではその腰を上げることは無い。
(つまんなくて退席とかはあるけど、そんなのどうでもいい)

その絶対的な前提条件で、
自分が面白いと思う映像作品を作り上げるというのは
テレビを制作する人間にとっては理想に見えるわけだ。

だから僕は映画を観る。
なんていうのは少し大げさすぎるけど、
あえて論理的な理由を突き詰めればそんな感じか。

そしてその映画を観た感想を書くのは、
思ったことをアウトプットするという
一種の脳みその体操であると同時に、
「いつか芥川賞をとる」
という野望に向けての助走でもあるのだ。

それはウソだけど。

2013年12月9日月曜日

映画『ウォールフラワー』70点


2013年12月8日観賞。

「ライ麦畑でつかまえて」の再来と絶賛、
社会現象となった“青春小説の金字塔”が映画化!


って前振りだから、

俗世界にまみれてしまった私の心を
どれほどまでに甘酸っぱいあの青春時代に戻してくれるの?


なんていう淡い期待感と共に観賞スタート。


アメリカの高校生は相変わらずパーティー好きで、
そこで酒やら葉っぱやら非合法に手を出すという
アメリカ高校生あるあるの青春が繰り広げられるわけだが、
そんな中でも近年まれに見る「上手く年を重ねる子役」
エマワトソンのダンスシーンは見るものを魅了する。
















彼女はこの映画でも圧倒的な輝きを放っていて、
















そりゃこんな子と仲良くなれたら
童貞高校生の少年はすぐに好きになってしまって不思議は無い。

まぁそんなこんなで青春映画に典型的な
さえない童貞高校生が主人公で、
















彼が高校に入学しイケてるグループと絡むようになり…
というよくある学園モノとしてこの物語はスタートし始める。

というわけで、僕らにとっての青春漫画の金字塔『I"sのような
本当に胸を締め付けられるような甘酸っぱいストーリーを
受け止める準備を完璧にスタンバイするわけだ。



ところがどうだ。


ふたを開けてみると、

ここまで深刻な何かを背負う高校生ばかりが
集うのがアメリカという国なんですか?

って青春の甘酸っぱさ感じるよりも、
そういう変な恐怖感が勝ってしまう観賞になってしまった。


青春の甘酸っぱさどころか、
イジメ、性的虐待、同性愛、近親相姦…

ここに言葉で記すだけでも、
タイピングする自分の指が重たくなることを実感できるような
重たい、強い爆弾が予期せぬタイミングと方角から投げ込まれてくる。


あんなに可愛くて輝いていたエマですら、
さらっと絶望的な過去を暴露するし。


「それでも僕らは前を向く」

















みたいなことを言いたくて、
そういうまとめに映画は入り始めてるんだけど、


目の前で急に爆発した爆弾を直でくらった僕は、

意外と俺のまわりにも
彼らみたいな過去を背負った友人がいるのかもしれない。
俺が気づいていないだけで…

そもそもそんな過去って人に打ち明けられないよな?
いくら親友でも…


そう思い始めると、

思春期の甘酸っぱい青春映画です


みたいな振り込みが邪魔で仕方なく、
どうしたら良いか分からない変な気持ちになる。


そしてそんな無茶苦茶な心理状態のまま映画は終わる。
とはいえ、全体的には決してつまらなくはないし、
何よりも主演の3人の演技力はたいしたもので、
充分に全編退屈無く見れる映画であることは間違いない。


しかし、ライトなのかヘビーなのかわからない
謎の青春映画であることは間違いない。

というかもはや青春という言葉が
似つかわしいのかどうかすらわからなくなる不思議な映画であった。


2013年11月23日土曜日

映画『ゼロ・グラビティ』100点


映画の天才」試写会にて鑑賞。


これは紛れもなく傑作。

自分にとっての生涯ベスト1は、
デビット・フィンチャーの『ファイト・クラブ』で間違いなかったが、



このキュアロンの最新作『ゼロ・グラビティ』には弱点が無い。
1度見た限りで言えば、91分間1秒たりとも隙が無いのだ。
そういう意味での100点映画。

「百年に一度の作品」


と言われてもそんなハードルを軽く超越してしまうほど。


キュアロンといえば、『トゥモロー・ワールド』における
戦闘シーンの「長回し(編集点無し)」は、
映画史に燦然と輝く伝説とも言える撮影技術だが、














それすらも遠くに霞む、
今作の冒頭10分以上!にも及ぶ「長回し」には
もはや感動をはるかに通り越し、「恐怖」すら感じる。
(この恐怖は予告を観るだけでも充分感じられる)

















その「恐怖」の正体は、

サンドラブロックが巧みに演じきった故に感じられる
無限の宇宙空間に投げ出された一人の人間が感じた
圧倒的絶望から来る「恐怖」はもちろんのこと、
















それ以上の「恐怖」の源泉は、同じ映像に携わる人間として、

「どうすればこんな映像を作り上げることが出来るのか?」

というもはや絶望にも似た、
いや、むしろ「絶望」をもはるかに超えた「恐怖」である。


キュアロン先生!マジでどうやって撮ってんの?
いくらかけたらこんなの撮れんの?


キャメロンもスピルバーグも舌を巻いた究極の映像美。
実際に宇宙を見た宇宙飛行士ですら、

「どうやって撮影したんだ!?信じられない!」

と叫んだほどの完成度。


さらにそこに、

本物の宇宙飛行士並に、いやむしろ
それ以上に体に負担をかけたであろう
360度激しく回転し続けながら、人間の絶望と希望を
完璧に演じきったサンドラブロックの怪演、
(アカデミー主演女優賞にふさわしい!!)













絶望的な宇宙空間で唯一の希望を照らす
クールなジョージクルーニー、













そして絶望の後に訪れる希望を、
陳腐な「死」や「物語」で語らない重厚な脚本、
全てが非常に高いレベルでまとまった傑作。


この映画を見ずして「映画を観た」とは言えない、
エポックメイキングとなり得る、
まさに100年に1本の傑作である。

そして何よりもこの映画は、
「映画館で観る」ことに意味があり、
「3Dで観る」ことに意味がある。

そこにもこの映画の価値が凝縮されている。

キュアロンは、現代において映画界が持てる全ての技術を
徹底的に、一切の妥協無く追求し、見事に映像化を成し遂げた。

大迫半端ねぇ!
キュアロンもっと半端ねぇ!

それは同時に「映画館で映画を観る」という
もはや死語とも言える言葉の意味を再度確認させてくれた。

今持てる全ての技術をつぎ込んで作られた映画だからこそ、
そんな最高峰のレベルの映像だからこそ、
映画館で、3Dで観るべきなのだ。

「DVDでいいや」何て言っちゃダメだ。
映画館でやっている間に映画館で観るからこそ、
この作品が上映されている時代に生きる者の義務だ。

それは言い過ぎかもしれないけど、
そう言いたくなるくらいこの映画は価値がある。
だからこそ、「映画として100点」なのだ。


絶対にもう一回見る。
皆さんも是非劇場で!!

2013年11月22日金曜日

映画『マラヴィータ』63点


2013年11月16日鑑賞。


スコセッシ×リュック・ベッソンということで、
必然的に鑑賞前のハードルは上がるわけだが。


結果から先に言えば、そのハードルを超えることは出来ず。


リュック・ベッソンと言えば、やはりテンポの良い編集と音楽、
そして何よりも迫力のある銃撃シーン、アクションシーンだが、
今回はそこに至るまでの「フリ」が長すぎる。
















その「フリ」というのは、
「訳あり」家族4人のキャラ紹介なんだけど、
ここが何というか中途半端なのだ。


破天荒すぎる母親がむかついたスーパーを爆破させたり、











なめきったナンパをしてきた男子同級生を
テニスラケットでボコボコにしたり、
















笑えるシーンはあるにはあるんだが、
そんなキャラの濃い家族をより際立たせて
ブラックコメディに振りきれば良いのに、
どうも行ききらずに、ただただダラダラと時が流れる。


かといってそれが
レオンほど深みのある哀愁を醸し出すわけでも無い。


というわけで、ここまで前振り長くしたってことは
さぞかし最後の戦闘シーンは凄いんだよね?

というハードルは上がりに上がり切って最終局面へ。


ところがどうだ。

一番カタルシスを感じたいドンパチシーンが
あれ?もう終わり?もうちょっと見せてよ!

拍子抜けする程あっさりし過ぎていた。
リュックベッソンはもう終わったしまったのだろうか・・・
なんだか悲しくなりました。

2013年11月18日月曜日

映画『悪の法則』77点



2013年11月15日鑑賞。

首をながーくして待っていたリドリースコットの最新作。
豪華キャストそろい踏みで、
脚本はノーカントリーのコーマック・マッカーシーだから
駄作のはずがない!とワクワクしながら鑑賞開始。


いやしかし…
開始10分で、

「これは何やらいつものリドリー先輩と違うぞ」

という空気を察し始める。


そう、亡き弟のトニースコットに負けず劣らず、
さすが兄貴!といういつもの空撮、素早いカット割り、
グラディエーター、プロメテウスでこれでもかと
かましにかましたど派手なCGはなりを潜める。


これってリドリー先輩の映画だよな?
なんて確認したくなるほど
穏やかで、靜かで、不気味な会話劇が淡々と続く。


というわけで、いつものリドリー先輩を期待して
鑑賞に臨んだ人々は、早々に駄作の烙印を
押してしまうのではないかという作品。


僕も冒頭はそんな一人になりかけたわけだが、
しかしどうもそうとは思えない。

話自体はハリウッド映画に「よくある」
麻薬カルテル(メキシコ中心)の抗争話だ。
これが会話劇を中心にゆっくりと動き出す。

一見退屈に思えるこの映画だが、
しかし、「いつものリドリー先輩と違うぞ」という
妙な好奇心をまさぐられた心理状態と
予告でもイヤと言うほど押されている豪華キャスト陣















の重厚な演技合戦で充分に退屈せずに見れる。


中でもやはり圧倒的な存在感を放ったのは
主演のファスペンダーでも、
ペネロペ&バルデム夫妻でも、
ブラピでもなく、間違いなくキャメロンディアスだ。













これまでの清純派、活発女子のイメージを大きく打破する
スーパーウルトラビッチを素晴らしい完成度で演じきる。

老いこそ隠せないものの、
TOHOシネマズ六本木を爆笑の渦に巻き込んだ
「フェラーリとのSEX」シーンは圧巻という言葉でも
全く持って物足りないアカデミー賞もののパフォーマンス。














これは是非劇場で観て欲しい。
キャメロンはもちろん最高なんだけど、
これを口開けてみてるバルデムの顔がまた最高。
ノーカントリーの冷血殺人鬼とは思えないアホ面。


そしてその様子を男子中学生のように
一生懸命ファスペンダーに語るバルデムの2Sは
もはやコントにしか見えない。

劇場は笑いに包まれていたが、
その笑いは、

「笑って良いんだよね?リドリー先輩…」
「笑うところで良いんだよね?」

という、75歳の巨匠の狙いがどこにあるのか
深読みしてしまうほどミステリアスな仕上がりに。


みたいに終始、何か分からない奇妙なつかみ所のない
演出の連続に始まり、連続に終わる。


そんな映画だが中盤以降、一気に殺しのアクセルが全開になり、
タイトル通り「悪」が、それも目に見えない「悪」が
登場人物達に次々と襲いかかり、見るも無惨に殺されていく。


その死に様足るや無力感極まりない。
映画の前半ではドヤ顔で悪いことばっかりしてた人々が
圧倒的な恐怖感を携えながらあっという間に殺される。


そう、これぞまさに「悪の法則」。
「悪」というのはその対象者に知らないところで、
いつの間にかはびこり、いつの間にか忍び寄り、
気がついたときには時既に遅し。

それこそが「悪の法則」なのだ!
って言いたかったんですかねリドリー先輩?


てな、ことぐらいしか無知な僕には分かりません。
だからどう評価して良いのか分からない。
散漫な脚本、何も解決していないじゃないか!といえば
そうなのかもしれないが、個人的にどうも駄作とは思えない…

しかしそれがなぜなのかわからない…



だから77点という採点は、
同じ得点のサイドエフェクトと同じ77点では無い…
だから人には素直に勧められない…
かといって70点以下という程でも無い…

だが、なぜかもう一度観たくなる、そんな映画。


その理由は何度も言うが映画素人の僕にはわからない。
でも確実に一つ言えることは、

75歳にして、新たな種類の映画に挑もうとしている
リドリー先輩には頭が上がりません!


2013年11月16日土曜日

映画『サプライズ』72点


2013年11月15日鑑賞。


これは素直に面白かった。
得るものは何も無いが、鑑賞後の爽快感が素晴らしい。

90分ちょいというコンパクトなサイズ感も良いし、

スクリーム×ホームアローン×キックアス×半沢直樹

と言っても過言ではないミクスチャー感満載の構成は、
出し尽くされたスプラッタースリラー映画に
スパイスを加えればまだ新しく見えると言うことを
立派に証明して見せたわけだ。


ホラーが苦手な女子でも、R-15とはいえ
さほどグロテスクな描写も無く、非常にテンポよく
ライトに殺人を描いているので不快感は無い。


予告動画を見れば分かるように、
別荘に集まった一家を
突然動物の覆面かぶった殺人集団が襲う。
キツネ・ヒツジ・トラ。

















そして順調に?家族は殺されていく。
無抵抗なままに。

結構惨殺されるんだけど、
こいつらみんなキツネとヒツジとトラだから
なんかコミカルに見えるという妙。
























ここまではスクリーム的な流れ。
だけどこの映画が面白いのはここから。

ホームアローン×キックアス×半沢直樹的な怒濤の展開。
ネタバレになっちゃうから詳細は伏せるが、
マコーレカルキンもヒットガールも半沢直樹もビックリの
「あの子」の壮絶な強さ!

よしいけ!もっとやれ!100倍返しだ!

観客は手に汗握り、
何なら立ち上がって「あの子」を応援したくなる。


殺人集団がなぜ一家惨殺をしようとしたか、
なぜ主犯のあいつはそこまでして主犯となり得たのか
とかいう、
本来重要な物語の核心みたいなものはどうでもいい!
どうでもよくなるほどの100倍返し!
早く100倍返しして!


果たして家族は生き残れるのか?
キツネとヒツジとトラを退治できるのか?

皆さんも是非劇場で!



2013年11月13日水曜日

映画『スティーブ・ジョブズ』55点



2013年11月10日鑑賞。


少し期待しての鑑賞だったが、
驚く程まとまりを欠いた脚本が痛々しい作品だった。


同じカリスマ伝記物で言えば、最近だとやはり
『ソーシャル・ネットワーク』が例に挙がるだろうが、
その完成度には遠く及ばない。


もちろん良いところだって無くは無い。
主演のアシュトン・カッチャーは役作りに励み

















歩き方まで非常によく似ていたし、
『バタフライエフェクト』以降、特に印象が無かったが、
俳優としての実力を見せつけてくれた。


だが、それ以外には特にほめるべき点が無い映画だ。


まず冒頭、インド旅行で何かに開眼するジョブズ。
だがその前後や彼の人柄を全く描かずに
ただ単純に天に向かって舞い、祈るジョブズが
スピリチュアルに描かれているので、
新興宗教の教祖にしか見えない。














まぁそういう風に見せて、彼を「奇人」と印象づけるために
あえて冒頭に持ってきたのかもしれないが、
それにしても安易すぎる演出。


こんな感じの冒頭からこの映画の胡散臭さを感じ始め、
もしかしたら駄作かも…みたいな臭いを醸し出し始める。


その後も消化不良な脚本は炸裂する。
『ソーシャルネットワーク』における
ザッカーバーグ顔負けの人間として欠陥ありまくり、
奇人変人はみ出し者ジョブズは描かれているものの、













こんな風にジョブズは会社で裸足、
しかも風呂入っていなくて臭いから上司に風呂入れと
編集所のADみたいなこと言われるわりに、
誰も出来ない機械のアップデートを短時間でやりきり
ドヤ顔で裸足の足をデスクに投げ出す始末。


この辺の真意はともかく、
ザッカーバーグ然り、天才と変人は紙一重というか
イコールで結ばれる傾向があり、
何かしら突出して欠落している傾向がある。
そういう観点ではこの映画というか、
ジョブズの奇人変人ショーとして楽しめなくは無い。


さらに言うと、楽しめたということでは無いが、
アメリカのまさに「契約社会」ぶりには驚かされる。

とにかく義理や人情など彼らの社会通念には存在しておらず、
自分を見いだしてくれた人だろうが、
立ち上げから一緒にやってきた人間だろうが、
邪魔になれば何の躊躇も無く解雇する、切り捨てる。


















日本ではあり得ない光景がこの映画で何のフリも無く
何度も何度も訪れる。

ジョブズもその犠牲者であり、
最終的には彼を見いだし、
最初に投資してくれた人間を自ら切り捨てた。
アメリカ人からすれば何の疑問も感じない
映画の一コマに過ぎないのかもしれないが、
これらは日本人にとっては非常に異文化で、
何か胸くその悪さを感じしてしまうシーンだった。


そんなこんな駄作だとか良いながら、
随所に印象深いシーンはあるのだが・・・

しかし一番肝心というか、盛り上がりたい
IBMとの戦争や、同じく時代を作った天才
「ビル・ゲイツ」との対決、ipod・i phoneの発明、
これらがなぜか駆け足どころかほとんど描かれていない。


マイクロソフトに「盗作」されてビルゲイツに直電して
激ギレするという、最も観賞者側が興味ある流れを
予告で流れていた電話シーンのみで完結させるという
ビルゲイツ大先生に圧力をかけられたのか?と
深読みしてしまいそうになるほど乱暴すぎる脚本!


















そんな中でも面白かったのは、
『ソーシャルネットワーク』のザッカーバーグも
ジョブズも、なぜかキャンパスで素足であること。














アメリカの天才はみんな裸足なの?
ホリエモンとかも東大裸足で歩いてたのかな?
少なくとも俺は靴下と靴をしっかり履いて
キャンパスを闊歩していたからアメリカにおける
天才にはなれないのかな。

2013年11月10日日曜日

映画『グランドイリュージョン』70点


2013年10月30日鑑賞。

正直あまり期待していなかったが普通に楽しめた。

まず全体的に編集と音楽がスタイリッシュでテンポよく、
映像も美しく、退屈せずに見れる。
これはとても重要なことだ。

そして何よりもこの映画の新しさというか、
評価されるべき点は、

所々垣間見られる

「いや、それはあり得ないっしょ!」
「なんかよくわかんないけど雰囲気で進もうとしてない?」

みたいな展開や脚本を、

「全てはイリュージョン」

という大きな皮を被った作品だという認識を呼び戻せば
全てを許せてしまうと言う、
一見今までにありそうで無かった切り口を採用したことだ。


あとは何と言ってもザッカ-バーグ君こと、
ジェシー・アイゼンバーグ君のイケメン化しかない。














ソーシャルネットワークの時の
ただのオタクにしか見えなかったザッカ-バーグ君が、

















こんな風にリア充系イケメンマジシャンになっちゃうんだから
映画って本当に面白いですよね。


とはいえ、正直黒幕がどうだとかいう話とか、
モーガンフリーマンの立ち位置がよくわかんないとか、
イケイケマジシャン集団を追う警察の男女が
結ばれたりするのは圧倒的にどうでも良いとか、
映画の中にはわりと気持ち悪い箇所はあるものの、
全編通して映像が美しく、テンポも良いので
デート映画には最適の映画なのでは。



2013年10月17日木曜日

映画『コズモポリス』80点


DVDにて鑑賞。

監督は鬼才デヴィッド・クローネンバーグってことで
今作の仕上がりもかなり好き嫌いの分かれる作品。
だからこの80点は人にお勧めする80点では無い。

過去の『ヒストリー・オブ・バイオレンス』や、
イースタン・プロミス』も面白いけど好きにはなれなかった。

そんなわけで『コズモポリス』も相変わらず
クロ-ネンバーグ全開の世界観で進んでいく。


簡単に言えば28歳にして大富豪に成り上がり、
イケメンで富と名声と女と全てを手に入れたような主人公が

















「元」の暴落で破産していくという話なんだけど、
個人的に最も印象的だったのが最後のシーン。



主人公を暗殺しようとする
ハゲでデブの元従業員(クビになった)のおっさんと
主人公がお互い銃を向け会いながら話し合うんだけど、













おっさんはひたすらに
「お前を殺して俺は人生に意味を持たせるんだ!」
と、いわゆる「負け組」が「勝ち組」を逆転したいが故に
吐くような良いとも悪いとも言えない「痛い」台詞を言い放ち、

それに対して「勝ち組」投資家は

「意味って何?」
「世の中理論だよ」

みたいな調子で序盤から保ち続ける能面のような
クールな表情で上から目線でハゲでデブのおっさんをいなす。

ところが次第にお互いがお互いの気持ちを吐露することで、
お互いがお互いに不安定になり始める。

ハゲでデブのおっさんは「意味を持たせる」とか
一見哲学的な発言を唾飛ばしながら言ってるくせに

「俺がクビになったのは『臭いから』」

という、超現実的な、これぞリアリズムみたいなことを言い始める。


そしてそれに呼応したのか知らないが、
エリートイケメン投資家は物憂げな表情と声で

「俺の前立腺は左右非対称だ」

とかいう謎の身体的コンプレックスを告白し出す始末。


この一瞬コントじみたお互いの告白は、
僕らが何か求めがちな「自分」とか「意味」とかより
最も切実でリアリティーのある現実なんじゃ無いか。


これに直接通じるかといったらそうでは無いかもしれないが、
最近、村上龍が爆笑問題のラジオに出たときに
村上春樹に関して話していたことで非常に印象的だった箇所があり、
少し長くなるが以下、引用する。


村上龍
僕は、春樹さんと一番違うのは、(村上春樹の作品には)
自意識の揺れとかっていうのがあって。
『自分はあの時、あの判断をして良かったんだろうか』とか。
それはスゴイ大事だと思うんですよ」

爆笑問題・太田「はい」

村上龍「僕は、そういう自意識の揺れってよりも、

その自意識の揺れを吹き飛ばしてくれるものが好きなんですよ」

爆笑問題・太田「そうそう」

村上龍「自意識の揺れにも、凄く大事なところは

いっぱいあると思うんだけど、ただ自意識の揺れって、
考えてみるとキリがないんですよ」

爆笑問題・太田「うん」

村上龍「答えが出ない」

爆笑問題・太田「若者っぽいですよね、それって」

村上龍「そうですね(笑)」

爆笑問題・太田「凄く」

村上龍「それを吹き飛ばすものって、

結構、パワーが必要なんですよ。たとえば、セッ○スとか、戦争とか。
戦争とか、それが良いってことではないんです。
ただ、自意識の揺れを吹き飛ばしてくれるものが好きなんですよ。
スゴイ音楽とか…

(中略)

爆笑問題・太田「村上龍さんの場合は、
現実に今起きていることを…たとえば、
半島を出よ』なんかでも、一時期から経済ってことを
抜きでは小説を書けないっていうところで、
どんどん取り込んでいくじゃないですか。
取り込んでいって、『現実の実態がこうなんだから、どうするか』
っていう。意識の揺れなんか、心の中の葛藤から飛び出して、
今の社会でどう生きるか、もがいて転んで血だらけになってるんですよ」

村上龍「うん」

爆笑問題・太田「でも、村上春樹さんは、

そこからちょっとスーッと上に居て、あんまり殻から出てこないですよね」

村上龍「うん…」

爆笑問題・太田「それはとっても若者らしい悩みだと思うんだけど、

僕なんかは、ギャーギャーもがきたいんですよ。
だから、共感を感じるのは、
今をどうするかってやってる龍さんの方に、共感を持つんです」

村上龍「あぁ」

爆笑問題・太田「意識の揺れだなんだってところと、

今まさに日本がアベノミクスだなんだって言ってるじゃないですか。
株の上げ下げとか外国の投資家、
投機家のさじ加減で一喜一憂するじゃないですか。
でも、それと実態とのズレで日本中が混乱してるところじゃないですか?」

爆笑問題・田中「うん」

爆笑問題・太田「安倍さんがやってることと、

実際に商店街で商売してる人の違いみたいなものが、
W村上との違いとが、俺の中に重なるんですけどね」

村上龍「う~ん」

爆笑問題・田中「言ってること分かりますか?」

村上龍「ちょっと分かります。

ただ、たとえばね…あんまり良い例えじゃないかもしれないけど…
中央線で暗い顔して佇んでるオジさんがいるとしますね」

爆笑問題・太田「はい」

村上龍「日本はいつも自殺が多いんですけどね。

そのオジさんが、なんで暗い気持ちになって
自殺まで考えてるかっていうと、意識の揺れなのか、
早期退職で解雇されたのか…それは分からないんですけど、
僕としては、解雇されたからだと思うんですよ」

爆笑問題・太田「うん」


世界は数字で出来ている』より引用。



長い引用になってしまったが、言いたいことは
村上龍の最後の言葉に集約されている。

そのオジさんが、なんで暗い気持ちになって
自殺まで考えてるかっていうと、意識の揺れなのか、
早期退職で解雇されたのか…それは分からないんですけど、
僕としては、解雇されたからだと思うんですよ」

そう、春樹が描くような一見崇高な「意識の揺れ」みたいなものは
決して「現実」に生きる世界においては、
人々が行動する上での真理では無い。

正しい表現かどうかは分からないが、
人間はもっともっと単純で原始的で本能的なのだ。


だからコズモポリスで描かれているように
一見哲学的で前衛的に振る舞う登場人物達も
「死」という「リアル」なものに直面したときに、


「俺は臭いからクビになった」
「俺の前立腺は左右非対称」

とか言い出してしまうのだ。
なぜならそれが彼らの真実だから。


で、ラストシーンがまた挑戦的で良い。
「意味」にこだわってたおっさんが、
「理論」信者の主人公の後頭部に銃を向け、
今にも撃ちそうなんだけど撃たずに
だらだらしゃべったまま映画は終わる。


こいつらのどちらが勝者だろうと関係ない。
というかその勝敗には興味ない。
そのドS的神目線で映画を撮るクロ-ネンバーグは
やはりただ者では無い。