注意事項

※素人の戯言なので観賞本数増えるごとに点数は微調しています。悪しからず。

2013年9月12日木曜日

映画『サイド・エフェクト』77点



幸福な生活を送っていたエミリーは、夫がインサイダー取引で収監されたことをきっかけに、
かつて患ったうつ病が再発。精神科医のバンクスが処方した新薬により、うつ症状は改善されたものの
副作用で夢遊病を発症し、やがて無意識状態のまま殺人を犯してしまう。
主治医としての責任を問われ、社会的信頼を失ったバンクスは、
エミリーに処方した新薬について独自に調査を開始。やがて衝撃的な真実にたどりつく。
(By 映画.com)


2013年9月8日鑑賞。



「鬼才」といわれたソダーバーグ監督の引退作。
引退にふさわしいコンパクトで美しくまとまったサスペンス映画だった。


まず引退作を彩る豪華俳優陣達。
中でも『ドラゴンタトゥーの女』では、徹底的な役作りで
圧巻の演技力を見せつけたルーニー・マーラ














その実力は今作でも遺憾なく発揮されていて、
いや、むしろ彼女の存在感無しにはこの映画は成立し得ないと
言えるほど、物語的にも彼女は鍵を握る存在である。


ソダーバーグ監督といえば、自らカメラを回すことも珍しくない
といわれるほど、その映像へのこだわりには定評のある監督である。

















さらに、アカデミー賞に輝いた『トラフィック』で見せた完璧な脚本、編集。
この技術は知る人ぞ知る『オーシャンズ』シリーズでも垣間見えるわけだ。


そんな彼の圧倒的な才能を、
これでもかというくらいに凝縮した作品であることは間違いないのだが、
鑑賞後に言葉にならない微小な違和感を感じた。


それは何かというと…

なるほど確かに美しく綿密に練られた脚本、
随所で監督のこだわりを垣間見れる、引退作にも関わらず
未だなお挑戦する姿勢を感じられる編集技術、
そしてそれを支える豪華俳優陣の濃厚な演技力…
















一見欠点の見えない「完璧」な作品なのだが…


そう、そこだ。


この映画は、あまりにも「完璧」すぎるのだ。


ネタバレになってしまうので詳細は避けるが、
この映画は終盤に大きなどんでん返しが起きる。


そのどんでん返しが起きてから、物語上ではどんでん返しの経緯、
理由などが少しずつ紐解かれていくのだが、


※余談だが、この「どんでん返し」はエドワード・ノートンのデビュー作
 『真実の行方』に見えてしまったといえば分かる人は分かる


その紐解き方が映画における「セオリー」みたいなものには当てはまらない
(私見ではそう感じた。映画通からすればそうでもないのかも…)
演出方法がとられているのだ。


その演出方法とは、簡単にいえば、「全て説明する」だ。


こういうサスペンス系の映画かつ鬼才と呼ばれる監督の映画って、
たいていがどんでん返しやトリックが見えてきたら、
その余韻みたいなもので映画を引っ張って、
あとは観賞者側の想像力や解釈に委ねるよ!的な映画が多い。


だが、この『サイド・エフェクト』は、そうは行かない。
どんでん返しが起きて、余韻に浸り始めて、

「あーなるほどね、あれがこうであそこがこうだから…」

みたいに整理し始めようとしたところで、
ソダーバーグは登場人物を使ってその謎を丁寧に解説させる。

それはまるで交通誘導員のごとく丁寧にゆっくり説明してくれる。
ここが評価の分かれ目のような気がするが、
思い出してみると、鬼才ソーダ-バーグは、『トラフィック』でも
観賞者側が混乱するような複雑な3つに分かれた群像劇を
映像化するに当たって、その3つの場面それぞれの映像に
異なる「色」をつけ、視覚的に明確に鑑賞者が理解できるシステムを導入した。

「鬼才」は、その名に一見ふさわしくない
「観賞者に優しい映画作り」をする監督でもあったのだ。


そう考えれば彼の幕引きにこの手法を一番しっくりはめやすい
サスペンスミステリーを持ってきたことに合点がいく。


そんな「説明しすぎ」映画だが、
冒頭に書いたようにサスペンス映画としては一級品の
綿密に練られた脚本と、冒頭から終わりまで緊張感を保ち続け、
鑑賞者を釘付けにする映画であることは間違いない。


その証拠に「ある殺人シーン」では、
映画館全体から「ヒッ!」という女性達の悲鳴が聞こえたほど。
こんな事映画観ていて初めてだったが、
「ヒッ!」とまではいかないが、確かに僕も驚かされた。




脚本と編集ばかりほめているが、
タイトルである「サイドエフェクト」=「副作用」に込めた
アメリカ社会における精神科医に対する強烈な皮肉は、
この映画の「どんでん返し」にこそ深々と刻まれている。


2013年9月10日火曜日

映画『ゴッド・ブレス・アメリカ』70点




キックアスよりブラックで過激。
リストラやら不治の病やらで自殺寸前の見るからにさえないおっさんと、














平凡で退屈な日常に嫌気がさしていた女子高生が













ひょんな事で意気投合し、世の中のむかつく奴らを
徹底的に射殺して回るという痛快カルトコメディ。

その対象は恐らくアメリカ人にとっては「あるある」の連続で、
日本でいう「一見リア充」、「糞セレブ女子高生」、
映画館で上映中にしゃべってるやつ、列に割り込むやつ、
中には人類普遍で虫ずが走るような、
「むかつく社会のゴミ」を片っ端から痛快に殺していく。













その動機はさえない主人公のおっさんが、

元妻と娘が自分から完全に離れて言ったうえ、
誤解からセクハラで解雇され、
さらに医師からは脳腫瘍で余命が短いと宣告された。
拳銃自殺をしようかと考えていたフランクだったが、
わがままな少女クロエが出演するリアリティ番組を目にした途端考えを変え、
隣人の車を盗んで番組の撮影現場へ向かい、
クロエを手錠で拘束したうえで射殺した。
(Wikipediaより引用)


こんな感じで全ての不謹慎殺人ショーが始まる。
似たようなコンセプトで大ヒットした『キックアス」と大きく異なるのが、
実際に人を殺したことが無い本当に平凡なおっさんと女子高生が、
同じく何も特殊能力が無い
「普通(といってもウザめ)の市民」を「殺しまくる」ということだ。

「キックアス」で人を殺すのは、結局極悪非道なマフィアもどきたちと、
圧倒的な戦闘能力を秘めたヒットガールである。













その「キックアス」の面白さは結局、ハリウッドというか
エンタメの常套手段である「勧善懲悪」にある。

「実際にスーパーヒーローが現実にいたら…それは許されるのか?」

という、バッドマンシリーズでノーランが挑んだテーマ、
ハリウッドで流行るそのテーマに乗っかっているように見せて、
実際はヒットガールの「超人」的な強さで悪を圧倒するという
(少女が銃やナイフで人を次々に殺すという不道徳な逆説的爽快感もあるが)
ベタな「勧善懲悪」に観賞者側は興奮し、さらにその「勧善懲悪」を果たすのが、
小学生位にしか見えない少女=ヒットガールであることが新しかったわけだ。

しかし、似たような話に思えるゴッドブレスアメリカには、
キックアスにあるような「爽快感」がいまいち感じられない。

それはなぜか?

その理由は前にも書いたが、

実際に人を殺したことが無い本当に平凡なおっさんと女子高生が、
同じく何も特殊能力が無い「普通の市民」を「殺しまくる」からだ。











殺されるのは、映画館でしゃべりまくる奴、長蛇の列に堂々と割り込む奴、
差別発言を繰り返すテレビコメンテーター、障害者をネタにして笑うテレビ番組…

たしかに腹が立つ、罰せられるべき人間たちかもしれないが、
いざ主人公達が銃口を向け、あっさり彼らを射殺しているのを見ると、
そこに爽快、痛快さは無いのだ。
そこにあるのは、なんだか分からないモヤモヤした不条理感だ。

それどころか、「なにも殺さなくても…」なんていう、
「24」のジャックバウワーが何の躊躇も無くテロリスト達を射殺する














際には全く抱くことが無い、道徳的感情を抱いてしまうのだ。
その感情が指し示すのは、

「実際にスーパーヒーローが現実にいたら…それは許されるのか?」

という問いに対しての解答では無いか?

もちろん答えは「No」だ。
実際にバッドマンやらが行う正義の味方的な「度」を超えた自警行為は
バッドマンだから許されるわけで、街に溢れる我々市民の一員が
いきなり正義感を背負い、勝手に人を成敗し始めたらそれはやはり許されない。

そんな冷静に考えれば当たり前のことをこの映画は教えてくれる。
監督の意図がそんなところにあるのかはさておき、
僕は見ていてそんな感想を不快感と共に感じた映画だった。


ゴッド・ブレス・アメリカ DVD

2013年9月6日金曜日

映画『マン・オブ・スティール』65点


2013年9月1日鑑賞。

スーパーマンシリーズは一度も見たことが無いけど、
ウォッチメン』のザック・スナイダーと、
ノーランが組んだのだから面白くないはずが無い、ということで鑑賞。


何よりもまず、そもそもスーパーマンの設定に驚いた。
スーパーマンってこんな宇宙人的な話なんだって。

どこか我らの青春漫画の大傑作『ドラゴンボール』における
サイヤ人的な発想に近い懐かしさを感じるクリプトン人。


そして、体から破壊光線を出したり、













とんでもないスピードで自由自在に空を飛んだり、











誰もが少年時代に夢見たことを、スーパーマンは実現してくれている。


この「男のロマン」的な観点で言えば、先日鑑賞した『パシフィック・リム』は、
非常に満足感の高い映画であったが、
そこで感じた「もっとバトルシーンを!」という少なからぬ不足感を
大いに補うに足る戦闘シーンがこの映画には盛り込まれている。


というか、むしろ、逆に、お腹いっぱいだよ!もういいよ!


というレベルで、


お前、もはや地球救ってないよ!
お前の星で解決すべき痴話げんかのせいでマンハッタンぼろぼろだよ!


というように、『パシフィック・リム』で感じたような、
糞カイジュウを倒すカタルシス的快感は、
映画後半からバトルシーンの満腹感で少しずつ相殺されていく。


スーパーマンファンにとっては当たり前なのであろう
ビル3つ分くらい貫通するレベルの衝撃でぶっ飛ばされても
傷一つ出来ないスーパーマンのスーパーな肉体!
もやは孫悟空以上の強さ!


そんな異常とも言える強さは、
悪い奴らと闘っているのを観ていて、最初はよし頑張れ!なんて
応援目線で観ていたが、徐々にその強さが逆に感情移入を削ぐ
強すぎる強さに変わり始めてしまう。


そんな風に感情移入を削がれ続けた結果、


あれ?こいつって確か今後バッドマンとの共演決まってるんだよな?
いや、全く強さの次元違うでしょ。
バットマンってほぼ生身の人間だよ?
スーパーマンが闘うレベルの敵とか出てきたら瞬殺でしょ。
ヤムチャが魔神ブウに挑む的な圧倒的な無謀感しかないでしょ。
それって映画として成立しなく無い?


みたいな、バッドマン配役決定早々に叩かれまくるベンアフレック先輩を
さらに案じてしまうという、もはや本筋には一切関係ない想像が
鑑賞中に駆け巡るという始末。


それに拍車をかけてしまっているのが、
スーパーマンがなぜ地球人を選んだのか、
なぜ人間愛溢れる超人になり得たのか、
そこがわからないから、ただマンハッタンぶっ壊しまくって
結果人間何人死んでるの?みたいなことが気になってしまう。
彼が闘うことに感情移入できない。
パシフィック・リム』の時のように「カイジュウをやっちまえ!」という
少年時代を思い出し手に汗握ることは全く出来ない。


ケビンコスナーという超一流俳優をお父さん役に選びながら、
















その親子愛、家族愛を今ひとつ深遠に描き切れていない、
なぜ地球人のケビンコスナーは、
サイヤ人的な宇宙船で降り注いだ主人公を育て上げたのか。
そこにどんな苦労があったのか。
その苦労故にスーパーマンは地球を守る決心をしたのか。

ここらへんが壮絶超絶CGバトルシーンに割いた尺の差し引きで
ごっそり描かれていないこと、それがこの映画のもう一歩感を創出している。


でもこの映画におけるCG技術、戦闘シーンの迫力は尋常では無い。
それだけでも観る価値があるといっても過言ではない。
でも逆に言えばそれだけの映画かもしれない。