当たり前だが、この映画はAKBに「ある程度」興味が無いと、
見続ける意味は無いし、見続けることは出来ない映画だ。
今作で3作目となるAKBのドキュメンタリー映画だが、
最もスキャンダルが多発した時期の映画がこれ。
次々と恋愛スキャンダルが発覚し、
「握手会」という本来はファンからの声援を
最も近い距離で感じられるイベントで、
謝罪会見を強いられるという、
逆説を極めた光景を見せつけられるわけだが、
そこに映る映像は、圧倒的に「非情」で、「悲惨」だ。
中でも最も印象的だったのは、脱退するあるメンバーが、
無言で見つめるファンを前に、
泣きながら謝罪しているのを見つめるAKBメンバー。
その中の一人に指原氏がいるのだが、
指原氏は「もうダメだ、見てらんないわ」と、
まさに「公開処刑」という名にふさわしい、
その残酷な光景に耐えられず、その場をあとにする。
そんな「もう見ていられない」指原氏は、
その後、自らのスキャンダルが発覚し、
博多へと異動するわけで。
そしてその後、
圧倒的に自分よりも若いメンバーに囲まれ、苦しみながらも、
徐々にその立場を確立していく様子が描かれている。
しかし、この映画を観ていて単純に思えるのは、
「10代の少女達が、
そこまでして恋愛禁止という呪縛にとらわれながら、
頑張るモチベーションはどこにあるのか?」
ということだ。
始まりから終わりまで、
この映画を観ながらその疑問が浮かんで離れることは無かった。
もちろん、「公開処刑」を経て、
その呪縛から解き放たれること無く、
AKBを去る子達もたくさんいる。
それは「逃げ」なのだろうか?
「ファンに対する裏切り行為」なのだろうか?
いや、あの残酷な様子を映像で観たら、
むしろ辞めていった、
逃げ出してしまった子達の方がまともに見えてくる。
圧倒的な公開処刑に合いながらも、
公開処刑に合うリスクを常に持ち合わせていながらも、
彼女たちがAKBにこだわる理由は何だろうか?
それが今作のタイトルにもなっている
「少女たちは涙の後に何を見る?」というテーマであり、
その答えは映画の終盤に構成されている、
松井珠理奈の密着にあるように見える。
11歳でセンターに抜擢された松井珠理奈は 、
「一見」迷いの全くない、
強い意志がみなぎった笑顔でこう言い放つ。
「恋愛はいつでも出来るけど、AKBは今しか出来ない」
さすが珠理奈!と、立ち上がりたいところだが、
果たしてどうだろうか。
時代は違えど、一時代を築いたアイドルの大先輩であ
る松浦亜弥は先日結婚したが、
そこで彼女はこんなコメントを発表した。
「私の青春には、すべて彼がいます」
このコメントは「アイドルとして」許されざるものなはずなのに、
その逆説性がより美しさを増すという不思議なものだ。
対照的な「アイドル」2人のコメント。
ここから見えるものは何だろうか。
「正しい」のはどちらなのか?
そこに、正解なんてものは無く、
至極一般論的なことを言ってしまえば、
「選択するのは彼女たち自身。自己責任」
なのかもしれない。
だが、10代そこそこの女の子達に、
人生において重要すぎる「青春」を取捨選択させるシステムは、
やはりどう考えても残酷の極地だ。
そんな残酷さを散々見せつけられた挙げ句、
最終的に、「一見」AKBを肯定的に捕らえて前を向く
松井珠理奈で終えているこの映画は、
最高のAKBプロパガンダ映画なのかもしれない。
だけど、そんな象徴とも言える松井珠理奈は、
体調不良で入退院を繰り返し、
最近では痩せこけた姿をテレビで見せている。
まるで「恋愛はいつでも出来るけど、AKBは今しか出来ない」と、
自らに言い聞かせ、鞭を打ち、
奮い立たせているかのように悲壮な笑顔で。
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