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※素人の戯言なので観賞本数増えるごとに点数は微調しています。悪しからず。
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2020年5月15日金曜日

特別記録 ドラマ『梨泰院クラス』


このブログは個人的な映画日誌だが、
あまりにも語りたくなるドラマだったので特別に記録しておく。

Netflix で話題のドラマ『梨泰院クラス』。
最後急にハードボイルドになったのは個人的には好みでは無かったが、
第2話くらいまで耐えると加速度的に面白くなり、終始素晴らしいクオリティだった。

そしてこのドラマを見て改めて、
”優れたエンタメというのは程よくベタ(展開が読める)でいい”
ということを思い知らされた。

我々の暮らすバラエティの世界では、
「いかに結末や見所を引っ張って最後まで見せるか」ということに奔走しているが、
ぶっちゃけこのドラマの結末は、第1話を見た時点で
(あの人があの人に最後勝つんだろうなあ的に)わかる。誰が見てもわかる。

でも見続けたいと思うその理由は、
ベタありながらも、5回に1回くらいベタを裏切る展開、
そして明瞭な勧善懲悪的構図、
「半沢直樹」と「下町ロケット」と「グランメゾン東京」
を掛け合わせたかのような下克上物語にあるのだが、
このドラマがさらに優れているのは、
そこに学園モノのような”青春”と”恋愛(しかも二重の三角関係)”を織り込んでくるところだ。
なんなら『ワンピース』や『ドラクエ』的な”仲間が増えていく”要素もある。

これは大ヒット海外ドラマに特に顕著だが、
1つの物語の中に4個も5個も同時並行的に物語や事件を展開させるという
非常に優れた脚本の勝利とも言える。

(余談だが全盛期の「24」なんて1分ごとに人が死んでない?
っていうペースだったし、24時間の中で国家的危機(テロ)が五回くらい起きたりしていた。)

これを可能にしているのが、
高校生から35歳くらいまでを1シーズンで描くという、
ある意味ドラマだからこそ可能にしている物語構成だ。

これは正直かなりチャレンジングだし、
実際に違和感や矛盾が生じる可能性も高くなり、
続編に逃げたくなるところを1話70分近くある(15話)
韓国ドラマのシステムをうまく使って描ききっていた。

さらに上手いなと思うのが、その”恋愛”の塩梅が絶妙なところ。

このドラマに男性ファンも多く見られる理由が多分ここで、
いわゆる”恋つづ”的な「あまーーーーい!」の極地のような
キュン死的”恋愛”を描かないので(その辺女性は少し物足りないのかな?)、
見ているこっちは恥ずかしくない。
なんならお母さんと一緒に見ても恥ずかしくない。

かといって、非モテや干物感を笑ったりいじったりすることも皆無で、
「え、こいつ童貞なの?」と信じられないイケメンっぷりである
主人公のパクセロイなのだが、
「絶対童貞じゃないじゃん」っていう矛盾を忘れさせるほどの
ピュアなキャラ設定が強固かつリアルすぎて、
フィクションの中に潜む矛盾を探す余計な邪念が機能しなくなるのも素晴らしい。

また、ヒット(バズり)の重要な要因である
”語りたくなる”仕掛けというか展開も多く盛り込まれている。

まず男どもが議論したくなるのが、「イソ派かスア派か?」これに尽きるだろう。
そしてこの世のものとは思えないほどの聖人君子ぶりを終始見せつけてくれる主人公であり、
”男の中の男”として君臨するパクセロイ。

「男であればこうありたい」、「男にはこうあってほしい」
という幻影の権化と化した彼の存在は、
男女共に熱狂的なファンを獲得した大きな要因であろう。


と、関係者でもなんでもないのに
こんなにも語っている時点で梨泰院クラスの大勝利だ。

だけども一つ最後に言いたい。

「パクセロイこそ男の中の男だ!」
とか言ってる男には気をつけた方がいい。

そう生きていけていない人こそ、憧れは強まるものだから。

2016年2月17日水曜日

映画『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』採点不能


時代の流れに取り残されてはいけない!ということで観ました。

が、私にはこの映画を評価する資格がありません。
っていうくらい、

巷の人達がワクワクして、興奮して、批判したり、絶賛する、
そんな土俵には決して上がれない程の知識ってことを
観賞し始めてから気がつきました。

さらに良くなかったのが、うちの親父がTwitterで

スターウォーズがつまらないのは、
宇宙の果てまで行っても、親子問題に終始すること。

と、つぶやいたのを観てしまったこと。
そう言われればそうだけど・・・的な、
ファンの方々激怒必死の真理?が邪魔して楽しめませんでした。
未熟でごめんなさい。

ていうか、そもそもこういう映画を楽しめる人間じゃ無いのかな俺は。
色んな意味で何か寂しい気持ちになった。

2015年1月20日火曜日

なぜ映画を観るのか?vol.2

以前、『なぜ映画を観るのか?』という記事を
映像制作に携わる人間の観点として書いてみたりしたが、
それとはまた違う観点で「なぜ映画を観るのか?」に対する答えを
最近見つけたので少し書いてみようと思う。


何か辛いことや、やってられないことがあったら、
『ローン・サバイバー(78点)』のDVDを観ることにしている。

なぜなら

「この映画の主人公達以上に自分が絶望的であることは絶対にあり得ない」から。


この映画の主人公は世界最強とも言われる
アメリカの海軍特殊部隊ネイビーシールズの4人だ。












彼らの何がどう最強かというと、
訓練期間中に8割以上が脱落する中で生き残り、選び抜かれた最強部隊なのだ。

その想像を絶する絶望的で過酷な訓練は、
映画の冒頭にも実際の映像らしきものが差し込まれるのだが、

両手両足を縛られて、プールに突き落とされるという
もはや過酷というレベルを超え、拷問に近いものだ。

そんな訓練をくぐり抜けた猛者どもの最強ぶりは様々な映画でも描かれていて、
『キャプテン・フィリップス(82点)』では、
数百メートル離れていて、さらに揺れた船の上から、
揺れた船に乗る海賊を一発で射殺するという離れ業をあっさりとやってのけたり、


『ゼロ・ダーク・サーティー(84点)』では、
あのビンラディンの暗殺をした部隊でもある。















その世界最強の男達が圧倒的な絶望的状況に追い込まれるのが
この『ローン・サバイバー』だ。
最強の男達が体中ボロボロ。血だらけ。















この映画、何が絶望的かって、
米軍4人に対してタリバン300人以上。しかも実話。

全身骨折は当たり前。
そこにはハリウッドお決まりの「お前はなぜ打たれないんだ!」的な
お決まりの主人公だけはなぜか被弾しないなんていうフィクションは存在しない。

全身あらゆる箇所をタリバンに打たれまくって体中穴だらけ。血だらけ。

タイトル通り一人しか生き残らない。
世界最強と言われるネイビーシールズの彼らでさえ、多勢に無勢。


それでも彼らは死ぬ間際まで世界最強の部隊としての意地を見せ続ける。
圧倒的な射撃の腕はもちろん、
打っても打っても数が減らないタリバン軍団に、
信じられない角度の断崖絶壁まで追い込まれて、
万事休すかと思ったら、1秒の間もなく「飛び降りるぞ!」と4人ともダイブ!













極限に追い込まれてもなお、この決断力、判断力の早さ!
当然石ころのごとく断崖絶壁を転がり落ちる彼らは全身ボロボロ、
各所骨折のままさらに追い込まれていくのだが・・・


そう、つまりなぜこの映画を観るかというと、
この人達の絶望感に比べれば、自分の痛みや悩みなどたいしたことは無いと。
むしろ比べることすらおこがましい。


こういう映画の使い方、見方もある。それが今回の結論。


2015年1月3日土曜日

映画『DOCUMENTARY of AKB48 The time has come 少女たちは、今、その背中に何を想う?』採点無し




4作あるAKBのドキュメンタリー映画は、これまで全て観てきたが、
※前作の感想はコチラ
今作は過去最も多くのイベント・事件
(大島優子卒業・握手会襲撃事件・総選挙など)が
収録されていると言っても過言ではない。

が、皮肉にも最も内容の薄いドキュメンタリーとなってしまっている。
と、悲しいかな、個人的には思う。


「AKB」というシステムを構築し魅力たらしめている根幹である
「物語性」みたいなものがもはや限界に来ていて、
この映画内では、あらゆる角度からお話にしていこうっていう
意気込みだけは伝わってくるけど、
それは結局大した波=物語にはならないという
非常に辛いジレンマを感じる作品だった。

※AKBの物語性から見る楽しみ方についての記事はこちら
→『AKB48について』


紅白歌合戦で突然発表された大島優子の卒業に
動揺を見せるメンバー、泣きじゃくるメンバー、
それぞれの表情を見れば感情の起伏は十二分に伝わるし、
衝撃を与えた出来事なんだろうな、くらいは分かる。


だが、この映画では、その「事件」をキッカケにして、
起きるべき「物語」は発生しているようには見えない。

あるとすれば、大島の卒業を期に、
「自覚を持った渡辺麻友が指原を破り1位になった」
というファンじゃ無くても知っているような、
深読みの必要が無い公然のつまらない事実だけで、
映画を観てもそういったことしか読み取ることが出来ない。


かつてブログに書いたような「前田敦子の卒業」から読み取れる
「物語」は全く存在していないのだ。だから面白くない。
ただ若くてそこそこ可愛い子達が右往左往していて痛々しいだけだ。


だから「大組閣」と題した非常に内輪向けのイベントで、
(AKBがSKEいったり、NMBがAKBいったりみたいなイベント)
名前も知られていないような若手の子が、ただ一人名前を呼ばれず
過呼吸で運ばれてしまっても、そこに物語が存在しないので、
本当にただただ惨めでかわいそうで痛々しい少女が過呼吸に陥っている
映像にしか見えなくて、思わず再生ボタンを留めそうになるほど、
無意味で不快な時間だった。


世間を騒がせた川栄・入山の傷害事件も、
映画内の描かれ方では結局、
「暴漢に刺された」という「点」の事実のみであるから、
ニュースを見ているのとさしも変わらない不愉快さを感じるだけなのだ。

別にこの事件をおもしろおかしく物語にして欲しいというわけではない。
こんなどうしようもない事件すらも映画に盛り込まないといけないほど
現在のAKBには「物語」が失われてしまっているのか?ということだ。


こんな現状をシステムの限界と呼ばずして何と言えば良いのだろうか。



そんな限界尽くしのAKBを支え続けた大島優子はついに卒業した。

この映画内で唯一物語性を感じ、切なかったのが、
大島優子が卒業に際してのインタビューで語っていた内容だ。


AKBを何のためにやっていたのか考えてみたんですけど・・・
最初はもちろん自分のためだったけど、いつの間にかシフトチェンジした。
それは、仲間のためにAKBをやっているんだ。
仲間がいるから、自分が頑張れば仲間も絶対良くなる。
仲間のためにやってたなって、ここ何年かで気付きました。
だからどんどん仲間がやめていったから、心細くなっちゃったんですよね凄く。


卒業したら誰もが晴れ晴れしい顔になるのに、
哀愁と悲しみすら感じさせる顔でこんなことを語っていて、
ブログに書いた事『大島優子の卒業について』と一致しすぎて、
新年早々何とも言えない気持ちになった。

以下ブログより

かつて秋元康は
「AKB48とは「大島優子の一生懸命さ」のことである」
と言ったらしいが、
誠にこの言葉は正しく、
大島優子が一生懸命になればなるほど
前田敦子は唯一無二の絶対的センターになり、

そんな前田去りし後は、
大島優子が一生懸命になればなるほど
後輩達にとっての越えるべき壁としての
存在感、意味が増すという哀愁。


この映画の「物語」は大島優子にしか無かった。
この写真の表情からだけでも、
少しAKBを知っていれば語りたくなってしまうような、
そんな「物語」を全力で作り上げてくれた彼女に心から拍手を送りたい。


2013年12月22日日曜日

なぜ映画を観るのか?


最近、

「なんでそんなに映画ばっかり見てるんですか?」

って聞かれるんだけど、
曲がりなりにも「映像」に携わる人間としては、
「映画」という作品表現って理想だと思うから
というのが答えになる気がしている。

その心は、映画という媒体は、
「観賞者が初めから終わりまで観る」
という絶対条件の下に製作されている。

これは、そんなの当たり前じゃんという真理に過ぎないが、
その真理は映画とテレビが圧倒的に異なる真理でもある。

残念ながらというべきか、
僕が制作に携わる「テレビ」は、厳密に言うと
「観賞者が初めから終わりまで観る」
という絶対条件の下には制作されていない。

視聴者はいつチャンネルを変えるか分からないし、
だからこそチャンネルを変えられないように、
チャンネルをキープして貰えるような工夫を凝らす。

その例は、時にバッシングの対象となる
「CM前の過剰な煽り」演出であったり、
「多すぎる」テロップであったりする。

その点、映画は対象的だ。
ほとんどの映画が、テレビバラエティでは「あり得ない」
冒頭2~5分のクレジット&風景で始まる。

こんな事をバラエティ番組でやってしまったら
まず視聴者は逃げてしまうだろうから、
テレビのセオリーでいえば、今回の放送では
こんなことが起きますよなんていう簡単な予告を流し、
チャンネルを変えられる前に本編に入る。

映画はそんな必要が無い。
自分が作ったものを見に来る観賞者は、
とりあえず映画館に着席したら、
エンドロールが流れるまではその腰を上げることは無い。
(つまんなくて退席とかはあるけど、そんなのどうでもいい)

その絶対的な前提条件で、
自分が面白いと思う映像作品を作り上げるというのは
テレビを制作する人間にとっては理想に見えるわけだ。

だから僕は映画を観る。
なんていうのは少し大げさすぎるけど、
あえて論理的な理由を突き詰めればそんな感じか。

そしてその映画を観た感想を書くのは、
思ったことをアウトプットするという
一種の脳みその体操であると同時に、
「いつか芥川賞をとる」
という野望に向けての助走でもあるのだ。

それはウソだけど。

2013年8月31日土曜日

映画『DOCUMENTARY OF AKB48 NO FLOWER WITHOUT RAIN 少女たちは涙の後に何を見る?』採点無し


当たり前だが、この映画はAKBに「ある程度」興味が無いと、
見続ける意味は無いし、見続けることは出来ない映画だ。

今作で3作目となるAKBのドキュメンタリー映画だが、

最もスキャンダルが多発した時期の映画がこれ。


次々と恋愛スキャンダルが発覚し、

「握手会」という本来はファンからの声援を
最も近い距離で感じられるイベントで、
謝罪会見を強いられるという、
逆説を極めた光景を見せつけられるわけだが、
そこに映る映像は、圧倒的に「非情」で、「悲惨」だ。

中でも最も印象的だったのは、脱退するあるメンバーが、

無言で見つめるファンを前に、
泣きながら謝罪しているのを見つめるAKBメンバー。

その中の一人に指原氏がいるのだが、

指原氏は「もうダメだ、見てらんないわ」と、
まさに「公開処刑」という名にふさわしい、
その残酷な光景に耐えられず、その場をあとにする。

そんな「もう見ていられない」指原氏は、

その後、自らのスキャンダルが発覚し、
博多へと異動するわけで。

そしてその後、

圧倒的に自分よりも若いメンバーに囲まれ、苦しみながらも、
徐々にその立場を確立していく様子が描かれている。

しかし、この映画を観ていて単純に思えるのは、


「10代の少女達が、

 そこまでして恋愛禁止という呪縛にとらわれながら、
 頑張るモチベーションはどこにあるのか?」

ということだ。

始まりから終わりまで、
この映画を観ながらその疑問が浮かんで離れることは無かった。

もちろん、「公開処刑」を経て、

その呪縛から解き放たれること無く、
AKBを去る子達もたくさんいる。

それは「逃げ」なのだろうか?

「ファンに対する裏切り行為」なのだろうか?


いや、あの残酷な様子を映像で観たら、

むしろ辞めていった、
逃げ出してしまった子達の方がまともに見えてくる。

圧倒的な公開処刑に合いながらも、

公開処刑に合うリスクを常に持ち合わせていながらも、
彼女たちがAKBにこだわる理由は何だろうか?

それが今作のタイトルにもなっている

「少女たちは涙の後に何を見る?」というテーマであり、
その答えは映画の終盤に構成されている、
松井珠理奈の密着にあるように見える。

 11歳でセンターに抜擢された松井珠理奈は 、

「一見」迷いの全くない、
強い意志がみなぎった笑顔でこう言い放つ。

















「恋愛はいつでも出来るけど、AKBは今しか出来ない」 
さすが珠理奈!と、立ち上がりたいところだが、
果たしてどうだろうか。

時代は違えど
、一時代を築いたアイドルの大先輩であ
る松浦亜弥は先日結婚したが、
そこで彼女はこんなコメントを発表した。

「私の青春には、すべて彼がいます」


このコメントは「アイドルとして」許されざるものなはずなのに、
その逆説性がより美しさを増すという不思議なものだ。

対照的な「アイドル」2人のコメント。

ここから見えるものは何だろうか。

「正しい」のはどちらなのか?


そこに、正解なんてものは無く、
至極一般論的なことを言ってしまえば、


「選択するのは彼女たち自身。自己責任」


なのかもしれない。


だが、10代そこそこの女の子達に、
人生において重要すぎる「青春」を取捨選択させるシステムは、
やはりどう考えても残酷の極地だ。

そんな残酷さを散々見せつけられた挙げ句、
最終的に、「一見」AKBを肯定的に捕らえて前を向く
松井珠理奈で終えているこの映画は、
最高のAKBプロパガンダ映画なのかもしれない。


だけど、そんな象徴とも言える松井珠理奈は、
体調不良で入退院を繰り返し、
最近では痩せこけた姿をテレビで見せている。



まるで「恋愛はいつでも出来るけど、AKBは今しか出来ない」と、

自らに言い聞かせ、鞭を打ち、
奮い立たせているかのように悲壮な笑顔で。


2013年8月10日土曜日

映画『風立ちぬ』採点不能



2013年8月10日鑑賞。


僕は特に「ハルキスト」ならぬ「ジブリスト」ではないので、
かなり久しぶりの、下手したら『ハウルの動く城』以来の劇場鑑賞ジブリ作品。
ということからもわかるように、特にジブリへの偏愛というか思い入れはない。
強いて言うなら、「『トトロ』が最高傑作だと思いますけどね」程度。
特にジブリストの方には、そんなことを踏まえて、
「ジブリ素人の戯言」程度の気持ちで読んで頂きたい。


まず第一に個人的な映画の感想を書いてしまえば、
この作品は、「受け入れがたい作品」だ。

あくまでも個人的な意見なので、
ジブリストの人は、
この時点でさじを投げてもらってもかまわない。


では、「受け入れがたい作品」であると結論づけた
その理由を書いていこう。


まず、全体を通しての「中途半端」感が尋常ではない。
主人公の「人生」を描きたいのか、それとも「愛」を描きたいのか、
「仕事」を描きたいのか、はたまた「戦争」を描きたいのか、
「時代」を描きたいのか。

どの角度から映画を切り取っても、
合点がいかない、物語として理解できない。
落としどころもない。気がしてしまう。


「いや、それが逆に深遠な解釈を促すんだよ」

みたいな逆説の鑑賞方法がジブリストにはあるのかもしれないけど、
そんなの知らん。


とにかく何も終わっていないし、そもそも始まってさえいない映画にすら感じた。

それはなぜか?

「世界の宮崎駿」ともあろう名匠が、
そんな薄っぺらいちぐはぐに見えてしまう構成の映画を…
単純にジブリ素人の私の目が節穴という説もありますが…
そこは個人的感想の場を述べているわけだから置いておくとして。


少しだけ考えてみたら、
何となく自分の中で消化しきる術を見つけた。


まず第一に、この映画で圧倒的な違和感を放つポイントがある。


それは、ジブリ映画のマスト条件とも言える
「ファンタジー性」を徹底的に排除した映画であるという点である。

そもそも扱っているモチーフが実在の人物、物語をベースにしているという時点で、
それはそうなんだろうけども、ここに今回の宮崎駿の意図を見た。
あくまでも私見ね。


この物語の主人公(仕事大好きマン)は、宮崎駿自身を投影したのではないか?


俺ってホント仕事好きでさ、仕事頑張ってさ、全てを犠牲にしてきたんだよ。
いや、そりゃ恋愛もしたよ?でもさ、ホントに仕事好きでさ、
ていうか本物の仕事したいならさ、
恋愛も何もかもかなぐり捨てないと成し遂げられないんだよ。
だから俺はそうやって自分の能力信じてやってきたんだよ。
で、結果残したわけ。
最愛の人を失ったことは悲しいよ。でもさ、俺はやってやったよ。
俺は成し遂げたんだよ。「生きた」からこそ成し遂げたんだよ。
だから「生きねば」。


劇中、そんな宮崎駿の心の声が僕には聞こえてきた。
それはこれまでトトロや千と千尋やポニョなど、
夢あふれるファンタジックで幻想的な物語を紡ぎ出してきた
ジブリの森の長とは到底かけ離れた「リアル」で「痛々しい」声だった。

主人公に自分を重ねた宮崎駿は、自分を投影したからこそ、
俺はこれだけの仕事人間だぜ、色々失ったぜ…
でもさ、見てみろよ、一つの作品を作り上げるために
必死になること、夢中になること、
それはこんなにも美しいだろ?
という映画に仕上げた。


それは究極の自己満足なのでは無いか。
それと同時に究極の自己投影映画なのでは無いか。


そう、だからこそ、
自己満足的に終わらせるからこそ、全てどの角度から切り取っても
所詮他人である鑑賞者の僕にとっては「中途半端」に見えてしまう。


つまり、ジブリのマスト条件とも言える「ファンタジー性」を一切排除するという、
自ら長い年月をかけて、身を削りながら積み上げたものへの
アンチというか、逆接をとるという、
「究極のニヒリズム」を彼はこの作品に込めたのではないか。

あのエンディングこそまさに極地であって、

でもさ・・・俺かっこいいだろ?俺は間違ってないんだぜ?

という自らへの慰め、それにしか僕は見えなかった。
そういう意味で、この映画は泣ける。

嗚呼、宮崎駿はもう引退するんだな。
もう充分に頑張ったと自分に言い聞かせているんだな。

そう思うと同時に「ひこうき雲」が流れ始める。
ユーミンが紡ぎ出したその歌詞は、宮崎駿のニヒリズムを助長する。

今はわからない 
ほかの人には わからない
あまりにも若すぎたと ただ思うだけ
けれど しあわせ


あくまでも「ほかの人にはわからない」のだ。
宮崎駿は主人公と同じで、孤独なのだ。

「けれど しあわせ」なのだ。
しかし、その「しあわせ」は本当の「幸せ」なのだろうか?
僕にはそう思えなかった。

彼(宮崎駿)の寂しい笑顔が頭に浮かんだ。

この作品を作りながら、「しあわせ」だ、「しあわせだった」と、
自分に強く言い聞かせる、彼の姿が頭に浮かんだ。
だから、その意味でこの作品は「泣ける」のだ。


宮崎駿は引退するのだろうか。
「ひこうき雲」が悲しく鳴り響いている。




この採点不能は、ジブリ素人の僕が、
何の気なしに観てしまった宮崎駿の作品が、
圧倒的ニヒリズムと化した自伝的最終作品に
見えてしまった事への衝撃、そこから来る採点不能だ。

彼の持ち味である類い希なるファンタジー性を
予期しながらの鑑賞からの落差は尋常では無い。

あくまでも個人的には、ファンタジーで締めくくって欲しかった。
引退するかどうか現時点で何も分かってはいないが、
そんな素人の戯言的には悲しみを込めた採点不能としたい。


2013年4月28日日曜日

映画『ザ・マスター』採点不能



この映画は採点不能だ。
鑑賞後、TOHOシネマズシャンテで僕は途方に暮れた。

「この映画は何だったんだ?」

わからない俺がバカなのか?
それとも監督がクレイジーすぎるのか?
いや、それともただの駄作だったのか?

そんな自問自答が止まらない。
そんな映画は久しぶりだ。

それはデビットリンチの映画のように、
「もう一回見れば謎が少し解ける」みたいな
類いの問いではなく、それはそれは果てしない禅問答なのだ。


ある程度の数、映画を見てきた自分だと思ってきたけれど、
この映画を理解できない自分はまだまだだ…なんて
勝手に批評家気取りで落ち込んでいた僕でも言えることを
とりあえずまとめてみようか。



★ホアキンフェニックスの怪演ぶり
これはどんな素人が見ても分かる自明の事実だろう。






★同じくホアキン演じるフレディの社会不適合者ぶり

終始笑えないレベルの社会不適合者、
ノブコブ吉村氏の破天荒なんて可愛いもんだよ。

フレディは写真家をやっていたんだけど、あるとき
やってきた客に、何の前触れも無くいきなり照明を顔に近づけて、
熱がってるのに、無言でさらに照明を近づける。
そりゃもちろん客は熱いから、わけがわからないなりに
おい!熱いよ!的なリアクションを返すんだけど、
もう変なスイッチ入っちゃってるフレディは、
力尽くでさらに客に照明を近づける。

で、耐えきれなくなった客はブチ切れて、つかみかかるんだけど、
さらに意味がわかんないのが、フレディはそれ以上に
逆ギレして、客を突き飛ばす。そして子供のように走って逃げる。
もはや常人とは思えない、圧倒的な社会不適合者。理解不能。
それ以外に言葉が見つからない。

このシーン、映画館で笑って良いのか分からなかった。
画だけ切り取ると非常に滑稽なんだけど、
その滑稽さを笑うべきなのか、フレディマジで頭おかしいわ
狂ってるわ的な、笑えない狂気の臭いも醸し出すから
どういうリアクションして良いか分からなくなるのだ。
ただ、印象には残る。ひたすら。
今でもあの画は鮮明に思い出せる。


★気づいたら女性が真っ裸で踊る謎の宗教団体の気味悪さ

教祖役を演じたフィリップ・シーモア・ホフマンの















ホアキンフェニックス顔負けの演技力はさることながら、
彼が率いる宗教団体は、何かがおかしい。

序盤から目に見えたおかしさはないんだけど、
何か違和感というか、怖さを醸し出す。醸し出し続ける。

そして気がつくと、みんなで歌って踊りながら、
若い女からおばあちゃんまで、全員が裸になって
ワイングラス片手に踊り出すシーンが現れる。

もうわけがわからん。

なんで裸なの?

映画館の誰もが思ったんじゃ無いだろうか?
だが、そんな問いへの解答は、一向に現れる気配は無い。
だけど、脳裏には深く刻まれる。
今でもあのシーンは手に取るように思い出せるのだ。




★論理的・因果的関係性を排除した印象派映画なのか?

そう、つまり、先ほど書いた、なぜ写真家のフレディがいきなり
理不尽すぎる対応で客に切れたのか、
そしてなぜ、唐突に真っ裸で女性達が踊り始めたのか、

この映画に対する違和感の正体は、
そんな圧倒的映像のインパクトに相応の解答というか、脚本性が皆無なのだ。

ホフマンの嫁が、狂気の塊のように暴走し続ける
ホアキンフェニックスと「もうこれ以上関わりを持たないで!」
なんて絶叫するまでは納得いくんだけど、
その後、なぜいきなりホフマンのチンコを握って、射精させたのか?
このシーンの意味は?

これにも解答は無い。いや、無かったように見えた。僕はね。
そんな風に、解答が無いことで気持ち悪さ倍増。
その解答を置き去りにして、つまり観客を置き去りにして、
淡々と映画は続くのだ。


だがどうだ。
『The Master』の公式HPを見てみると、
ノーラン、サムメンデス、フェルナンドメイレレス、ベンアフレック、
園子温、中島哲也、行定勲と、蒼々たるメンツが激賞の嵐では無いか。


だがどうだ。
そのコメントを見ると全てが抽象的だ。

「美しい」だとか「天才」だとか「異形」だとか「魂」だとか…

そういう「見る人が見れば分かる」的な映画感が半端ないぞ。
でも、そんな巨匠達の激賞コメントを見て思った。

この映画はやはり論理とか綿密な構成とか、ましてや宗教問題とか、
そういう壮大なテーマであったり、ストーリーを魅せる映画では無い。

ポール・トーマス・アンダーソン(通称PTAって言うらしいけど、何それ。)が
思う、考える、感じる、最高の1カット、1シーンを、
それこそ「魂」込めてとりきった、そしてそれをつなぎ合わせた。

そんな映画なんじゃ無いかって。

そこに論理や理論や解答は無い。

いや、もしかしたらPTAの中ではあるのかもしれないけど、そんなの知らない。
そんなの知らなくて良い。

限りなく究極的に芸術に近い映画なんじゃないか。
そういうことにしておこう。

そうしておけば「あーよくわかんなかった!!」って、
俺は堂々とTOHOシネマズシャンテの中心で叫べるわけだ。

そして、ドヤ顔で

「The Master見た?あの映画難しい?あぁまぁね、あれは見る人を選ぶよ、
ピカソの絵なんかと一緒さ、いつの時代も名作と狂気は紙一重なんだよ。」

なんてカプチーノを飲みながら村上春樹的に言ってやれる。
PTA万歳!!!!!!