遠藤周作の名作『沈黙』を巨匠スコセッシが映画化。
ずっしり来る秀作だった。
各キャストの名演振りはもちろん強く印象に残っているが
個人的には、
“誰か”が“自分ではない何か”を「本当に信じる」ということは、
ある意味その時点で、その”誰か”の“死”を意味する
ということだ。
「人を信じる」ということは、「究極、そいつのために死んで良い」
ってことなんだ。って事をこの映画は痛いほど突きつけてくる。
だからそんな決意もないのに「あなたのこと信じてみようと思う」とか
メロドラマ的セリフを吐きべきではないのだ。日常において。
そんな怒りはさておき、
遠藤周作の『沈黙』と言えば、高校生か大学生の頃に
『海と毒薬』と合わせて読んだのが最後だから
その時に感じた「ずっしり感」は脳みそにかろうじて残っているものの
詳細な物語の流れは忘れていた。
簡単この物語の内容を言うと・・・
17世紀、キリスト教が禁じられた日本で
棄教したとされる師の真相を確かめるため、
日本を目指す若き宣教師のロドリゴとガルペ。
2人は旅の途上のマカオで出会ったキチジローという
日本人を案内役に、やがて長崎へとたどり着き、
厳しい弾圧を受けながら自らの信仰心と向き合っていく・・・
という話。
目の前で踏み絵させられたり、キリスト教徒であることがバレてしまい、
「転ぶ」=棄教することを迫られ、様々な残酷すぎる拷問に処される
キリスト教徒達を目の前にしても「神」はなぜ「沈黙」するのか?
これほど「神」を信じて行動しているがゆえに拷問、処刑されている
教徒達をなぜ神は「黙って」見ているのか?
助けてくれないのか?
映画監督でもある塚本晋也が怪演。本当に苦しそうだった。 |
っていう禅問答のような神への疑念をひたすら突きつけられるわけだが
この映画の面白いというか肝にもなっているのが
踏み絵で隠れキリシタンを取り締まる幕府側の人間達のスタンスだ。
彼ら(イッセー尾形とか浅野忠信とか)は、
これ形だけだからさ。
とりあえず踏んだら死なずにすむんだから踏んじゃいなよ。
踏んだらもうそれで良いからさ。密かに信仰してれば良いじゃん。
と、徹底弾圧と言うより超絶カジュアルに棄教を迫る。
イッセー尾形。絶妙に嫌な奴で最高だった。 |
なぜなら、弾圧に対し最後まで抵抗して死罪になると
そのキリスト教徒は「殉死」した「英雄」になってしまうからだ。
これでは弾圧すればするほどキリスト教徒が団結するという
負の連鎖を生んでしまう。
そしてアンドリュー・ガーフィールド演じる宣教師ロドリゴは
目の前で残酷すぎる拷問で死んでいくにもかかわらず
自分たちが信じた神は沈黙して何もしてくれない、助けてくれない・・・
俺が棄教すれば、この人達は死なずに済むのだ・・・
でもそれは神を裏切ることになってしまう・・・
そんな葛藤に葛藤を重ね、ついに彼は「転んで」しまう。
自分はそんなに強くない。
でもそれで良い。それが自分だし、それが人間だ。
宗教のために死ぬ。目の前で人が死んでいく。
自分が「キリスト教辞めます」って言えば救われる。
それでも辞めない!と言い続けられるほど自分は強くない。
そんな弱い自分を受け入れてくれる神は存在しないのか?
いや、存在してくれるはずだ。
そんな葛藤を手に取るように感じながら見ていたのだが、
そもそも観賞前から大きな疑問だったのが
「スコセッシはなぜ何十年もの苦労を重ねてまで
日本の文学作品を映画化したのか?」
ということだ。
でも161分にも及ぶ大作を観賞し終えて、
勝手ながら少しだけ分かった気がする。
キリスト原理主義的なスタンスからすると、
「転んだ」人達は確実に裏切り者だろう。
だが、「生きる」ために表向きは「棄教」を宣言し
「沈黙」しながら「隠れキリシタン」として生き続ける
キリスト教徒を許しても良いのでは無いか?
事実、金のために隠れキリシタンを密告したと思ったら
俺の罪を神は許してくれるかな?とか泣きながら告白したりと
ことごとく神をおちょくって口先で生きてきた
窪塚洋介演じるキチジロウは、最後まで生き延びたのだ。
だって死んだら意味ないじゃん。
とでも言うかのように。
っていうことを
自らも洗礼を受けた身で有りながら、1966年に『沈黙』という作品で
世界に発信した遠藤周作という作家は革新的だったんだなと思う。
そしてそれを1度頓挫しながらも映画化したスコセッシの執念。
7割以上がキリスト教徒と言われるアメリカで
原理主義者の攻撃にあうことは容易に予想される中
映画化したスコセッシの執念。
色々なものが濃密に濃縮された161分。
そして何よりも
これってアメリカ人はどう見てるんだろう?
感想聞きたいなって思いましたが
アカデミー賞にほぼスルーされている感じがその答えというべきなんでしょうか。
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