2014年6月29日観賞。
久しぶりに邦画を映画館で観た。
なぜなら中島哲也はとても好きな監督だし、
『告白』は私的邦画ベスト5に食い込む作品だから。
というわけで割と高い期待感を持ちながらの観賞。
ある程度の覚悟はしていたが、これでR-15?
『ウルフ・オブ・ウォールストリート』がR-18ならこれも間違いなくR-18じゃね?
と疑いたくなるほどのエロ・グロ・血・ドラッグ祭り。
カップルで見に行くのであれば、彼女側の趣向をしっかり確認してから行くべき映画。
さて、肝心の中身であるが非常に評価の難しい映画だと思う。
キャッチコピーに
「あなたの理性をぶっ飛ばす劇薬エンターテイメント」
とあるように、
『告白』よりも映画としてのエンターテイメント性とアート性を高めて来たという印象。
中島哲也の映画は毎回非常に美しい映像編集と
アニメーションなどを織り交ぜたアーティスティックな映像美が印象的だが、
『渇き。』はそんな個性がここぞとばかりに爆発している。
だから見終わった後に、何かを深く考えさせられるというよりも、
シーンや画が断片的に切り取られ、観賞後、生々しく思い出される。
論理的にでは無く、感覚的に鋭く脳に刻み込まれるような映画なのだ。
だから別に主義主張や論理的に解釈する必要な映画では無いとわかりつつも、
それでも少し考えてみたくなったので書いてみる。
監督の中島哲也が『渇き。』で『告白』と共通して描きたかったのは
「親子愛が圧倒的に欠落した親子の行く末」であって、
愛が渇き切った登場人物はもはや絶対的に再生不可能で、揃いも揃って破滅に向かう。
今回の主人公である「親子愛が欠落した親子」 |
その破滅振りは、主人公親子を中心に描かれる。
自らの親としての娘への愛が圧倒的に欠落した故に娘は壊れる。
アル中でDVの親父から愛を感じることが出来ない娘は
その愛を「『渇』望」し、探し求める末に、
「他人の愛」を悪魔的にもてあそぶモンスターに。
中島哲也がオーディションで一目見て「加奈子だ」と 思ったという小松菜奈。確かに完璧だった。 |
そんな娘に徹底的に破壊された父親は最後に、
「(娘を)ちゃんと(俺が)ぶっ殺す」
と言う。
もはや何もかもが取り返しがつかなくなり、
しかし、その地獄のような現実の源泉には、
「父親としての娘への愛の欠落」があったことに気がつくものの、時既に遅し。
今はもう「自らの手でちゃんと殺す」しか、
渇ききった「親子愛」を表現する術が無い深い絶望がそこにある。
『告白』同様に、親子愛の欠落は絶対に取り返しがつかないもので、
地獄絵図を生み出す源泉となる、そんな教育テレビ的教訓が
この映画には痛いほど詰まっている。
とか何とか言ってみるが、
大好きな二階堂ふみはさすがの演技力で見事にビッチに変身していたし、
登場シーンはさほど長くないもののさすがの存在感 |
妻夫木も不気味すぎる刑事役にしっかりはまっていた。
ある意味一番怖い悪徳刑事 |
というわけで総じて面白く観れた映画だったわけだが、
無駄に気になってしまったことを最後に記しておこう。
冒頭のスタッフクレジットはタランティーノのオマージュ、
中盤のイケイケクラブシーンはスプリングブレイカーズのオマージュなのか。
だが個人的にはやはり、いくら映像がスタイリッシュで
小松菜奈が可愛くても、日本人が踊り狂う様子は
外国人がビーチで踊り狂う映像よりもセンスフルには見えてこず、
スプリングブレイカーズの方がはるかに突き抜けて秀逸だったことは言うまでもない。
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